【第7回】〈一千億分の八〉フォン・ブラウン〜悪魔の力を借りて夢を叶えた技術者 | 『宇宙兄弟』公式サイト

【第7回】〈一千億分の八〉フォン・ブラウン〜悪魔の力を借りて夢を叶えた技術者

2016.12.19
text by:編集部コルク
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宇宙に行くロケットはミサイルと技術的には同じ。そんな、ちょっと怖い事実をご存知でしたか?
今ではロケットといえば、宇宙飛行士や人工衛星を宇宙に送る手段として、宇宙へ飛んでいく夢のあるイメージがありますよね。じつは、ロケットの技術が飛躍的に進歩したのは、第二次世界大戦中のこと。その立役者は宇宙に憧れたあるカリスマ技術者でした。NASA技術者の小野さんが、宇宙への旅の知られざる裏話を、技術的解説を交えて説明してくれます!

 

1969年7月16日、NASAケネディー宇宙センター、打ち上げ管制室。3人の宇宙飛行士を乗せた巨大なロケットが人類初の月旅行へと旅立つのを見守るスタッフたちの中に、とりわけて感慨深げな表情をした、一人の男がいた。それは44年分の感慨だった。44年間、戦争や政治に翻弄されながらも頑固に夢を追い続けた末に生み出した傑作が、今空に昇っているこのロケットだった。

その男は大柄で金髪のハンサムな外見で、きれいにアイロンのかかったスーツを着ていた。顔には 57歳相応の皺が刻まれていたが、青い両目には若い頃と変わらぬ熱い情熱がこもっていた。

その男は大酒飲みで、若い頃は女にめっぽうモテた。車の運転が荒いことで有名だった。チェロを弾き、馬に乗り、スキューバダイビングをした。

その男はドイツ語訛りの英語を話した。彼の体から漂う気品は、ドイツの貴族の家に生まれた出自から来るものだった。

その男は22歳で博士号を取った天才技術者にして、弱冠32歳で約4000人の開発チームを率いたカリスマ的リーダーだった。

その男はアメリカ初の人工衛星を打ち上げたジュノー・ロケットの生みの親でもあった。そして、第2次世界大戦中にロンドンを恐怖に陥れたあのロケットの生みの親でもあった。

その男は人生のすべてをただひとつの夢に捧げた。夢を叶えるためならば文字通り何でもした。「悪魔」と契約を結ぶことさえも…。

その男は、名をヴェルナー・フォン・ブラウンといった。

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人類を月に運んだサターンVロケットと、その開発者フォン・ブラウン(Credit: NASA)

トゥモローランド

 

1955年には、フォン・ブラウンはアメリカのお茶の間のちょっとした有名人になっていた。(アメリカに茶の間はないが。)彼が登場したのはABCの『ディズニーランド』という番組。当時ディズニー社が計画していたディズニーランドの建設費を稼ぐために製作した番組だった。番組の内容は、夢と魔法の国を構成する4つのテーマランド、すなわちアドベンチャーランド、フロンティアランド、ファンタジーランド、トゥモローランドのそれぞれに関係する冒険、歴史、空想、そして科学技術についてのドキュメンタリーだった。

その「トゥモローランド」の回で取り上げられたテーマが、当時はまだ夢でしかなかった宇宙飛行だった。番組はいつも通り、魔法の杖を振るティンカーベルのアニメーションと『星に願いを』の歌で幕を開けた。冒頭でウォルト・ディズニー本人が登場して宇宙への夢を語った後、本連載でも紹介したロケット工学の歴史とロケットの仕組みが、ディズニーの十八番であるコミカルなアニメーションで説明された。そして登場したのが、当時42歳のフォン・ブラウンだった。

ono_7_02ウォルト・ディズニー(左)とフォン・ブラウン(右)(Credit: NASA)

フォン・ブラウンは青いシャツに赤いネクタイを着けてカメラの前に現れた。設計室を模したスタジオを片手をポケットに突っ込んで歩きながら、情熱のこもった青い目を真っ直ぐ4千万人の視聴者に向けて語りかけた。

「さて、これが私の設計した4段式ロケット・シップの模型です。」

そのドイツ訛りの高い声は独特で、聴く者の記憶に残った。彼は模型を使いながら、この巨大なロケットがいかに宇宙飛行を実現するかを説明した。そして力強くこう結んだ。

「もし私たちが今、十分なサポートの下に組織的な宇宙開発を始めれば、現実的な有人ロケットを10年以内に開発しテストできると私は信じています。」

 

フォン・ブラウンの説明はもっぱら技術的なものだったが、人のイマジメーションの最も深い部分を刺激する何かがあった。まだ無人の人工衛星すら実現していない時代に、彼の語る未来はラディカルで、空想的で、ディズニー映画と大差ないようにすら思えたかもしれない。しかしこの男から放射される知性と自信には、たとえおとぎ話のような夢でも人を信じさせる魔力のようなものがあった。4千万の視聴者はこの男に魅せられた。

だがこの男には、ディズニーの番組では語られなかった過去があった。

 

ヒトラーの目に灯った火

 

1943年7月7日、ドイツ領東プロシアの総統大本営・ヴォルフスシャンツェ。深い森と地雷原、そして何重もの有刺鉄線に守られたこの前線作戦基地の最も内側に位置する建物の映写室に、ナチス親衛隊(SS)の制服を着た31歳のフォン・ブラウンの姿があった。それまでの彼のキャリアで最も重要なプレゼンが控えていた。彼は上官のドルンベルガー少将とともに、緊張した表情でヒトラーの到着を待っていた。

待つこと数時間。数人の部下を連れたアドルフ・ヒトラーが部屋に入ってきた。

「総統閣下!」

と勇ましく兵士が叫んだ。ヒトラーの顔は疲れ切っていた。戦況はドイツにとって思わしくなかった。東部戦線はソ連に押し戻され、 アフリカは米英軍の手に落ちた。フランスは依然ドイツの手にあったが、たった34キロの海峡に隔てられたイギリスは健在だった。

ドルンベルガーの手短な挨拶の後、映写機が回り、スクリーンに白黒の無声映像が映った。 フォン・ブラウンのチームが開発したA-4ロケットの映像だった。その巨大なロケットは火を吹いてまっすぐに離陸し、軽々と音速を超え、あっという間に成層圏へと消えていった…。

なぜヒトラーがロケットに興味を持ったのか?ロケットとミサイルは根本的に同じ技術だからだ。ロケットの先端に人工衛星ではなく爆弾を積み、宇宙ではなく敵国に向けて打てば、ミサイルになる。フォン・ブラウンが開発したA-4は、世界初の誘導ミサイルだったのだ。

フォン・ブラウンはスクリーンの横に立ち、映像に合わせて技術的な解説をした。彼の高い声は自信に満ち、情熱の込もった青い目はまっすぐに総統を見ていた。A-4ロケットは約320 km離れた標的に約1トンの爆弾を運ぶことができる。つまり、ドーバー海峡を越えてロンドンを爆撃できる。そしてマッハ3で標的に突進するこの殺人機械は、いかなる飛行機や砲弾をもってしても打ち落すことは不可能である…

映像が止まり、フォン・ブラウンが話し終えると、沈黙が部屋を支配した。誰も声を発しようとしなかった。ヒトラーは明らかに興奮していた。顔からは疲れが消えていた。目は不気味に輝いていた。

沈黙を押しのけるようにドルンベルガーが追加の説明を始めると、ヒトラーは急に立ち上がって聞いた。

「10トンの爆弾を積めないのか。」

ドルンベルガーは恐る恐るそれが無理だと説明した。すると彼は叫んだ。

「せん滅だ!私が欲するのはせん滅的な力だ!」

もはやドイツの勝利はおとぎ話のような夢となっていたにも関わらず、フォン・ブラウンのロケットが戦況を一気に逆転する最終兵器になると、ヒトラーは狂信的に信じたのだった。

この日、ヒトラーが惚れ込んだのはA-4ロケットだけではなかった。独裁者は、弱冠31歳にして 1000人を超える開発チームを率い、国家元首の前でも臆せずに堂々とプレゼンをするフォン・ブラウンに惚れた。ヒトラーはその場でこの若きカリスマに「教授」の称号を与えた。ドイツの学術界では最高の栄誉だった。そして彼はその証書に自らサインをした。

かくして、悪魔は契約書を差し出した。ナチス政府はA-4に優先的に資金と物資を供給することを約束した。そして月に1800機のA-4を製造することを命じた。A-4には新しい名前が与えられた。「報復兵器2号」を意味するVergeltungswaffe 2、略してV-2だった。

約21,000人 の命を奪ったこの呪われたロケットこそが、人類の宇宙への夢を可能にする決定的なブレイクスルーとなった。前回登場した「ロケットの父」ゴダードはロケット工学の礎を築いたが、彼が人生をかけて作ったロケットは高度たった2.7 kmに達するのがやっとだった。フォン・ブラウンは陸軍の豊富な資金を使って 、オモチャに毛が生えたようなものだったロケットの技術を、宇宙に行ける直前のレベルにまで一気に引き上げたのだった。

もちろん、ヒトラーは宇宙飛行などに微塵の興味もなかった。一方、フォン・ブラウンは宇宙へ行くロケットの開発に莫大な資金が必要なことを理解していた。両者の利害関係は完全に一致した。技術がどう利用されるかは、彼にとってさほど重要ではなかった。

歴史には様々な見方がある。フォン・ブラウンはヒトラーに利用された、というのもひとつの見方だろう。 だが、ドイツが敗戦しヒトラーの野望が潰えた後も、フォン・ブラウンの夢は生き残り、その技術は人類を月へと送り込んだ。本当に利用されたのは、果たしてどちらだったのだろうか?

 ono_7_03ナチス時代のフォン・ブラウン(中央右の黒いスーツを着た人物)。(Credit: Bundesarchiv, Bild 146-1978-Anh.030-02 / CC-BY-SA 3.0)

 

留まれ、お前はいかにも美しい

 

僕はどうしてもゲーテの『ファウスト』を思い出さずにはいられない。日本では原作よりも手塚治虫による翻案マンガを通して知っている人の方が多いだろうか。

名高いファウスト博士はこの世のあらゆる知識を極めたが、それでも人生に満足することができなかった。そこで彼は悪魔と契約を結び、死後に悪魔のしもべとなることを交換条件に、現世で悪魔にあらゆる望みを叶えてもらう。そうしてこの世に十分満足したら、「留まれ、お前はいかにも美しい」と言う。するとファウストの魂は悪魔のものになる。それが約束だった。

「留まれ、お前はいかにも美しい。」

もしかしたらフォン・ブラウンはこの世を去る時、そんな言葉が口から出る心境だったかもしれない。子供の頃から宇宙を夢見続けた彼は、少年時代の夢をすべて叶えた後、1977年に65歳で死んだ。

フォン・ブラウンは究極のロマンティストであると同時に、徹底的なプラグマティストだった。彼の夢は誰よりも熱く、しかし夢を叶える手段は誰よりも冷徹だった。純粋酸素の中で火は獰猛どうもうに燃える。 彼の夢もまた、純粋すぎたのであろうか?

時代に翻弄され、時代を利用したフォン・ブラウン。彼の人生と夢の軌跡を追いながら、人類がついに宇宙への扉を開けるまでの物語と、それを可能にした技術について、語ることにしよう。

 

運命は黒塗りのセダンに乗ってやってきた

 

「あなたは将来何をしたいの?」

10歳のフォン・ブラウンに母エミーは聞いた。その答えは10歳とは思えないほどませたものだった。

「僕は進歩の車輪を回すことに役立ちたいんだ。」

これはまた、貴族の家の子としても普通ではない答えだった。1920年代のドイツではまだ、科学者や技術者は、良家の子息が選ぶような職業ではなかったからだ。

なかなかの悪ガキでもあったようだ。小さい頃にはおばさんからプレゼントされた鳥類図鑑セットを古本屋に売って工作の材料費を稼ごうとし、母にこっぴどく叱られた。中学の頃にはロケットの実験をして山火事を起こした。高校の夏休みにはありったけの小遣いをはたいて大量のロケット花火を買い、それをおもちゃの車にくくりつけて一斉に火をつけ、ベルリンの街の歩道を爆走した。すぐに警察に捕まり、迎えに来た父に大目玉を食らった。

彼の人生を決めたのは、13歳の誕生日に両親からもらった小さな天体望遠鏡だった。月や、惑星や、星を、少年フォン・ブラウンは夢中で眺めた。そして宇宙への夢に取り憑かれた。

その年、フォン・ブラウンは全寮制の中学校に入学した。運命のいたずらだろうか、学校が校舎として使っていたエッタースブルクの城は、かつてゲーテが『ファウスト』を著した場所と言われている。宇宙時代の「ファウスト博士」のこの世でのただひとつの夢は、宇宙飛行の実現だった。ノートの余白に宇宙船やロケットの絵を描き、宇宙旅行に持って行く物のリストを作った。179ページにも及ぶ一般向けの天文学の本の原稿も書いている。ロケットの実験をして山火事を起こしたのもこの頃だ。心がどんどん宇宙へと吸い寄せられていくにつれ、宇宙以外のことは何も気にならなくなっていった。

ono_7_04フォン・ブラウンの中学校があったエッタースブルク城。現在はホテルになっている。(Credit: MichaelWE, licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Germany license.)

とはいえ、フォン・ブラウンの中学での成績はひどく、中でももっとも苦手な科目が数学も物理だった。転機となったのは、読んでいた雑誌に紹介されていた、ある一冊の本だった。

Die Rakete zu den Planetenräumen. (惑星間宇宙へのロケット)

そう、前回の記事の主役だった、「ロケットの父」の一人であるヘルマン・オーベルトの本である。

さっそくフォン・ブラウンはこの本を注文した。しばらくして本が届き、胸躍らせながらページをめくったフォン・ブラウンは愕然とした。理解不能な数式だらけだったのだ。彼は先生に本を見せ、どうすれば理解できるようになるか聞いた。「数学と物理を勉強しろ」が答えだった。

人という生き物は、夢を目指して夢中で努力すると信じられないほどの力を出せるものである。フォン・ブラウンは宇宙への夢に駆られて数学と物理を猛勉強した。そして高校では抜群の成績を収め、一年飛び級して卒業した。それどころか、教壇に立って一学年上の数学の授業を教えさえもした。一方、 卒業試験での数学と物理以外の成績はギリギリだった。彼にとって勉強の目的も宇宙ただひとつだったのだ。ありったけの情熱を夢のために注ぎ込み、それ以外のことには目もくれなかった。

高校を卒業したフォン・ブラウンはベルリン工科大学に進んだ一方、VfR (Verein für Raumschiffahrt, 宇宙旅行協会)という名のアマチュアロケット・グループにも出入りするようになった。彼と同じようにオーベルトの本に熱狂した若者たちの集まりだった。VfRは這いつくばって雀の涙ほどの資金を集めては、オモチャのように小さなロケットを作って成功や失敗を繰り返していた。もっとも成功した実験では高度1 kmほどに達したが、宇宙旅行という壮大な夢からはほど遠かった。

1932年の春、運命の使者は黒塗りのセダンに乗ってやってきた。車がVfRに着くと、中から3人の私服を着た軍人が出てきた。その中に、その後13年にわたってフォン・ブラウンのパトロンとなるドルンベルガーも含まれていた。

つづく

=参考文献=

  1. Michael J. Neufeld, “Von Braun: Dreamer of Space, Engineer of War,” Vintage Books, 2007.
  2. Matthew Brzezinski, “Red Moon Rising: Sputnik and the Hidden Rivalries that Ignited the Space Age,” Times Books, 2007
  3. Amy Shira Teitel, “Breaking the Chain of Gravity: The Story of Spaceflight before NASA, Third Printing Edition,” Bloomsbury Sigma, 2016
  4. “Disneyland History.” http://www.justdisney.com/disneyland/history.html. Retrieved on Oct 29, 2016.

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〈著者プロフィール〉
小野 雅裕
大阪生まれ、東京育ち。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。2012年マサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科博士課程および同技術政策プログラム修士課程終了。慶應義塾大学理工学部助教を経て、現在NASAジェット推進所に研究者として勤務。

2014年に、MIT留学からNASA JPL転職までの経験を綴った著書『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』を刊行。


さらに詳しくは、小野雅裕さん公式HPまたは公式Twitterから。