検察の行き過ぎをチェックしてきた辣腕弁護士の弘中氏と、検察、司法、メディア、そしてそれらを取り巻く社会状況について議論した。

そもそも今回の事件は、障害者郵便割引制度を悪用し大量のダイレクトメールを発送して不正な利益を得た企業や団体関係者が逮捕・起訴された郵便法違反事件に端を発する。しかし、郵便法違反ではたかだか罰金刑で終わることを面白くないと見た大阪地検特捜部が、政治家と官僚トップを巻き込み、最初からシナリオありきでつくられた事件ではないかと弘中氏は見る。その背景には東京地検特捜部に対するライバル意識、特捜という看板を掲げるが故に、常に特別な事件をあげなければならないという気負いがあるとも指摘する。

しかし、「事件をつくる」のは何も検察に限ったことではない。ロス銃撃事件も薬害エイズ事件もメディア報道が先行し、世論が感情的に吹き上がり、それらに後押しされた捜査当局が追随した事件だった。海外を自由に往来し、ブランド品に高級外車などバブルを先取ったような派手な生活を送る三浦氏、血友病の権威であり、特異な話しぶりや振るまいが高圧的に映る安部氏、聖域とされたマスメディア企業の買収に手を染め、社会規範に対する挑発的な言動がエスタブリッシュメントの反感を買った堀江氏。彼らはいずれも、マスコミや世間から容赦のないバッシングを受けつづけた挙げ句に、刑事訴追まで受けるという経過を辿っている。

特に薬害エイズ事件に関しては、エイズという得体の知れない怖い病気で実際に多くの被害者が出ているという時期に、社会の不安を拭い去るためには、誰かを悪者にして、そこに原因を帰属させることで安心感を得たいという空気が社会全体を覆っていたと弘中氏は言う。

しかし、現実には血液製剤による薬害エイズ問題は世界各国で起きており、海外では誰一人として臨床医の刑事責任など問われていないと弘中氏は言う。日本で安部氏がマスコミ報道や世間から叩かれて起訴されたのは、まさに人々の不安を静めるためのスケープゴートにされたに過ぎないと弘中氏は主張するのだ。

しかし、それにしても最近の日本は、社会の共通の敵を見つけることに甚だ熱心のように見える。まずマスメディアがその先導役を務め、どこからか感情のフックを備えたネタを見つけてくる。そして、さんざん祭を盛り上げた上で、最後は真打ち登場とばかりに検察が現れ、悪者を退治して社会正義を貫徹する。それによって社会は溜飲を下げると同時に安堵感を得る。自由人権協会の代表幹事も務めた弘中氏の戦歴は、単に著名な刑事被告人を弁護してきたというだけでなく、著名人でありなおかつ目立つ存在であるが故に、社会が安心を得るための道具に使われた個人の人権を守ってきた歴史でもある。

その弘中氏は、そうした正義の貫徹にやたらと検察や司直が入ってくる原因として、立法府や政治の機能不全を挙げる。社会の変化に立法システムが対応できず、人々の不全感や不安感が高まる中で、司法が本来の領域を超えて、それを手当する役割まで担うようになっている、あるいはそれを担わざるを得なくなっているというのだ。しかし、本来は立法が果たすべき機能を、逮捕権や公訴権を持った検察や警察が担うようになれば、無理な刑事捜査や人権侵害のリスクを招くことが避けられない。昨今の検察批判は同時に、政治の機能不全にも向けられなければならないということになる。

「社会の敵」を弁護し、有罪率99.9%といわれる日本の刑事裁判において無罪を勝ち取ることで、検察の行き過ぎをチェックしてきた辣腕弁護士の弘中氏と、検察、司法、メディア、そしてそれらを取り巻く社会状況について議論した。

引用元: なぜわれわれは社会の敵を求めるのか – マル激トーク・オン・ディマンド – ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局.

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