夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

12月4日(木)のTW:「天皇制」の合理的な根拠?

2014年12月05日 | 国家論

皇室典範の個々の規定を個別に改正して事態を収拾しようとする政策に頭から反対するつもりはない。しかし、これは対症療法でしかなく、暫定措置的な効果が期待されるに過ぎない。天皇制(天皇家)が憲法上の制度たることをやめないかぎりは、不自由・拘束は遺憾ながら制度とともに a


付いてまわらざるをえない。(奥平康弘『萬世一系の研究』S378)
※奥平康弘氏はここまで論じ来たって、君主制(奥平氏のいわゆる「天皇制」)を、人権論や男女平等論から批判しても無力であることを悟って、結論として「天皇制(天皇家)が憲法上の制度たるをやめないかぎりは」b


「不自由・拘束は付いてまわる」と言う。この奥平康弘氏の君主制国家に対する批判において、奥平氏の示している限界は、まず第一に氏が Konstitution としての憲法しか知らず、Verfassung としての憲法を知らないことにある。こうした奥平氏の憲法観の悟性的であることの c


欠陥は、実定憲法と自然憲法の区別を必要十分に知らず、たんに「実定憲法」のみをもって「憲法」と見なすことになっている。さらに第二に、奥平氏が「不自由・拘束は付いてまわる」と述べるとき、その「自由」の実体をどのようなものとみるか、いわば氏の「自由観」における欠陥、d


もしくは弱点である。奥平氏には自由における「Liberty」と「Freedom」の区別を正しく認識されておらず、奥平氏のいわゆる「自由」が悟性的な「自由」でしかないことである。 e


では一体そもそも、「女帝」論議をひきおこす根幹である天皇制には、いかなる合理的な根拠があるのか。この論議、すなわち根底に向けてあるべき論議はどうなるのか。・・・
「戦後六〇年」の間に、天皇制に関してはたくさんの議論があった。けれども、公には、a


天皇制の合理的な根拠を真正面から問題にする機会をわれわれは持ったことがない。今こそが本当は、その好機だと思う。しかし、今度もウヤムヤに終わるだろう。「女帝」論議と違って、天皇制の合理的な根拠をめぐる議論は、道具的な意味での「合理性」が問われるのではなくて、b


憲法体系に関わる政治原理のレベルで問われるべきものであって、いわゆる「公共理性」(public reason)にもとづく討議とならざるを得ない。法制官僚的には、憲法第一条から始まり第八条にまで至る「第一章 天皇」の諸規定の存在=既成事実から出発することになるが、c


「公共理性」はそうした存在自体の根拠を問うのである。
告白すれば本書では、きちんとした形では「公共理性」からの検討がなされたわけではない。しかし制度の成立存続に関する歴史研究を遂行するに当たって、意識の背景には「公共理性」からの検討という着眼が、私なりにあるのであって、d


読者が本誌のあちらこちらでは、いくばくかでもそのことに気付いていただけたならば幸いである。(奥平康弘『萬世一系の研究』あとがき  s401 )

※ここで奥平氏は 「では一体そもそも、「女帝」論議をひきおこす根幹である天皇制には、いかなる合理的な根拠があるのか。」という問いを  e


自ら発して、さらに、この「合理的な根拠」を「公共理性」(public reason)と言い換え、「告白すれば本書では、きちんとした形では「公共理性」からの検討がなされたわけではない。」と言い訳しておられる。しかし、これでは話にもならない。f


いずれにせよ本書での奥平康弘氏の論考の根本的な欠陥は、ヘーゲルの歴史的な作品である『法の哲学』を検討、検証したあとがまったく見られないことである。氏のいわゆる「天皇制の合理的な根拠」「公共理性」(public reason)については、g


すでにヘーゲルの『法の哲学』において、「国家と自然法の論理」として論証されているからである。h


 
 
※追記20141205
 
ここでノートをとりながらつぶやいた『萬世一系の研究』の著者である奥平康弘氏は、元東京大学教授で、法学部で長年のあいだ憲法学を教えられてきたそうです。ということは、奥平氏のもとで教育を受けた多くの若者たちが、今も財務省や裁判所などの政府国家機関で官僚などとして、またその他政財界においても、日本の中枢を担って働いているということです。
 
奥平康弘氏の抱いているような憲法観を、その限界を克服することも出来ない氏に教えられたまま東大法学部を卒業した若者などが、司法、行政立法における政府国家機関やNHK、朝日新聞などの新聞、テレビなどのマスコミなどに就職して、そのまま国家と国民に対して指導的立場に立つようなことになっているということです。
 
また奥平氏のいわゆる“「天皇制」は民主主義とは両立しない”といった悟性的な“結論”を実際に真に受けた在日朝鮮人などが、自らの憎悪と偏見でそれをさらにいっそう振幅させながら、自らの妄想する「天皇制」を攻撃して、日本の国民大衆の嫌韓感情を刺激するというドンキホーテまがいの悲喜劇も起きているようです。
 
こうしたことは何も奥平康弘氏だけに限ったことではないと思います。若者たちを無責任無自覚に「洗脳」「扇動」することになっている大学教授たちなどいわゆる「インテリ」たちが、日本の国家社会にもたらしている害悪の罪は、彼らの教えた新聞記者や政治家、官僚たちが日本の国益を深く損なっている例に見るように、きわめて深刻なものとなっていると言えるのではないでしょうか。
 

 

 
 
 
 

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