遠くに福島第1原発の排気塔が見える
遠くに福島第1原発の排気塔が見える

 ビジネスパーソンを乗せたバスが、スピードを落とした。

 「ほら、あそこから高圧電線の鉄塔が延びているでしょ。東京まで続いているんです。そして先端が青く塗られた塔がありますね。福島第1原子力発電所の排気塔です。その下に原子炉があります。ここから5kmほどの距離です」

 放射線の線量計を見ると毎時5マイクロシーベルトを示している。東京都内の50~100倍程度の放射線量だ。

 バスの中でマイクを握る案内人は一般社団法人「あすびと福島」の代表理事・半谷栄寿氏(62)。半谷氏は出身地である南相馬市を拠点にして、福島県沿岸部を舞台にした社員研修ツアーを2014年から実施している。今回の参加者は印刷大手・凸版印刷の課長クラスの社員16人。2泊3日のスケジュールである。ほとんどの社員が被災地に入るのは初めてのことだ。

凸版印刷社員が原発20km圏内を視察
凸版印刷社員が原発20km圏内を視察

社会貢献と利益の両立

 凸版は半谷氏のこの事業に立ち上げから参加しており、同社では「ソーシャルイノベーションプログラム(社会問題の解決と経済的利益の両立を目指す)」と呼んでいる。

 震災直後は多くの大企業がCSR(企業の社会的責任)として被災地で様々な活動を実施した。だが、現在も継続的に被災地に関わり続けている企業は決して多くはない。ましてや極めて深刻な状況の福島沿岸部に人材を投入する凸版のような企業は珍しい。

 だが連結で5万人近い従業員を抱え、1兆5269億円の売上高を誇る凸版でも、一方的な復興投資には限界がある。半谷氏も「被災地・企業の双方が利益を得る仕組みでなければならない。志はソーシャル、仕組みはビジネス」と説く。

 凸版の研修では最終的に「自社のソリューションを生かし、被災地の復興のためにどんなビジネスが可能か」を議論する。参加者はこの研修を通じて、何らかの新規事業案としてアウトプットすることが求められる。凸版ではそれが実現可能な場合、予算を付けプロジェクトチームを立ち上げることも視野に入れている。

 こうした半谷氏や凸版の取り組みに賛同する企業が徐々に増えてきた。初年度はツアーに参加したのは凸版、三菱商事、東芝の3社だけだったが、昨年度はNEXCO中日本・東日本や三菱電機など8社にまで拡大。参加者総数は1000人を超えた。

グロービスでの講義
グロービスでの講義

グロービスで理論も学べる

 最近、あすびと福島と凸版の両者は、プログラムに「グロービス経営大学院での講義」を取り入れた。研修初日、グロービス仙台校では半日かけて半谷氏の半生をベースにしたケーススタディを扱う。

 南相馬市出身の半谷氏は原発事故の被災者であると同時に、東京電力の元執行役員だった経歴を持つ。半谷氏は原発事業には直接関わらず、新規事業などを担当し、2011年3月11日時点では関連会社の役員を務めていた。「元東電マンとして責任を感じている」と半谷氏。

 社員研修ツアーを始めたのも、東電時代のノウハウを生かし、地元の復興に一役買いたいと考えたからだ。グロービスの授業では数奇な運命を持つ半谷氏の半生そのものが「教材」になっている。

生の現場の迫力に圧倒

 グロービスでの「机上の理論武装」を終え、研修のハイライトは冒頭に描写した「原発20km圏内」でのフィールドワークだ。

 研修事業を始めた当初は、原発20km圏内は通行規制が敷かれ、現地での行動範囲も限られていた。しかし、2015年秋までに国道6号線(富岡-双葉町間)が規制解除となり、常磐自動車道も全線開通した。そのため、よりリアルに、現場を知ることが可能になった。

 凸版の研修では、避難指示で誰も住めなくなった町を視察する。現在も富岡町の中心部は5年前のまま、時間が止まっている。地震や津波で破壊された家屋が生々しく残る。新聞販売店の軒先には2011年3月12日付の新聞がうずたかく積まれたままになっていた。

除染作業でできた汚染土の仮置き場
除染作業でできた汚染土の仮置き場
震災直後の新聞が積まれたまま
震災直後の新聞が積まれたまま

 バスの車窓から外を眺めていると、放射線防御服を着用した除染作業員の姿、広大な汚染土の仮置き場が次々と現れる。凸版の営業・管理部門の宗田いずみさんは「普段はシステム開発を主としたオフィスワークがほとんどでこのような衝撃的な現場に来ることはない。被災地のことを事前勉強してきたつもりだったが、生の現場とのギャップを感じた。震災から5年も経過するのに福島の沿岸部が復興以前のレベルであることに愕然とした」と感想を述べた。

 半谷氏は力を込めて言う。

 「福島第1原発20km圏内の現実を、五感で感じ、共有して欲しい。原発事故がきっかけで急激に人口が減少し、高齢化を迎えたこの地は、いずれ日本が直面する社会問題の先進地でもある。そこで皆さんが企業人として、何ができるのかをよく考えて」

 半谷氏の言うように、福島沿岸部は大震災によって「未来の日本」を先取りした場所。

 例えば生産年齢人口(15~64歳)は、震災直前は4万3264人だったのが2015年1月では2万9588人にまで急激に減少している。65歳以上の高齢化率も25.9%から33.5%まで一気に上昇した。

 そうした社会問題の解決と企業利益の両方を満たせるアイデアをひねり出すのは容易ではない。例えば安心して子供が暮らせる街づくり、あるいは風評被害をなくすために、凸版の強みは生かせるのか――。

 過去、凸版の研修で考案され、実際に福島で動き出した新規事業もある。耕作放棄地の有効利用などに寄与する菜の花を用いた菜種油の商品開発、グループ企業で保育事業を手掛けるフレーベル館のノウハウを生かした地域のコミュニティスペースづくりなど。いずれも、「志はソーシャル、仕組みはビジネス」の事業だ。

 今回の2泊3日の研修でも参加者は徹底的に議論し、東京に戻っていった。議論された内容は、半谷氏や凸版との間で改めて精査され、被災地での新事業として具現化されていく可能性がある。

 凸版の同社人財開発センターの担当者は語る。「実際に現場を見ると、意外な結果を目撃することもある。現場に立脚しない机上の理論や理屈は役に立たない」。

 現場主義を貫く企業の、「被災地と社員の再生」は、これからも続く。

■変更履歴
本文中、「グロービス経営大学院」の表記を「グロービズ」、「グロービズ経営大学校」としていました。
また凸版印刷の売上高「1兆5269万円」を「1兆5269億円」に訂正します。本文は修正済みです。 [2016/3/11]
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