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BACK NUMBER #512 2016.3.5 O.A.

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平成唯一の三冠王・松中信彦 知られざる引退の舞台裏
2016年3月1日。日本プロ野球界を代表する選手が引退を発表した。松中信彦(42)。込み上げる涙を抑えられなかった。引退を決断するギリギリまで現役続行を諦めていなかった。ホークス一筋19年。そんな男が自らチームを退団してまで選んだ茨の道。その舞台裏をカメラは追い続けていた。葛藤する男を支えていたのは、妻と3人の息子。その家族の前で松中が流した涙の理由とは…。家族と共に挑んだ最後の戦い。
松中の野球人生、それはチームの常勝軍団への道のり、そのものと言っても過言ではない。プロ3年目でレギュラーに定着。この年23本のホームランを放ち、ホークス35年ぶりの日本一に大きく貢献した。不動の4番になると、チームは毎年のように優勝争いを繰り広げ、2004年にはプロ野球史上7人目の三冠王を獲得。そして、ライオンズ・松坂大輔との対決は、平成の名勝負として、ファンの記憶に今も強く鮮やかに刻まれている。日本最強のバッターへ。松中は32歳のとき、生涯ホークスを誓い7年契約を結ぶ。しかし松中は、ここ数年間、苦しいシーズンを送っていた。年齢による衰えもあり、打率が低迷。出場機会は激減していた。3人の息子に自分が活躍する姿を見せたい。そんな思いが、出場機会の減る松中を突き動かしていた。しかし昨シーズン(2015)、松中は開幕2軍スタート。1軍に昇格したのは9月21日。チームは既にリーグ優勝を決めていた。いわば消化試合。球団は、チームの功労者である松中に「来シーズンの進退は自分で決めて欲しい」と告げていた。それは事実上、「チームの戦力としては考えていない」という意思表示だった。引退か…。現役続行か…。リーグ戦終了までの残り13試合が、野球人生を決める大一番となった。進退をかけて臨んだ打席。フォアボールを選択した。その後、8打席に立ったが、ヒットは1本も打つことができなかった。しかしその一方で、ある感覚を取り戻していた。それは球筋を見極める選球眼。1軍のピッチャーが投げ込むきわどい球を見極めることができれば、まだ打てると考えていた。「自分はまだできる」「辞める理由などない」悩み抜いた末に、愛するホークスを自らの意志で去る決断を下した。
2015年10月1日。ホークスのユニフォームを着てグラウンドに立つ最後の試合。家族もスタンドに駆け付けた。9回裏、松中がバッターボックスに向かうとヤフオクドームは、異様な空気に包まれた。もう2度と見る事の出来ないその姿に、スタンドのファンが声を振り絞る。息子たちも声援を送る。自分を支えてくれた多くの人たちのために、この一打席に全てをかけた。最後の打席は三振だった。ホークスを常勝軍団に導いた男にエールがやまなかった。
ホークスに別れを告げた松中の新たな戦いが始まった。まず取り組んだのは、筋力トレーニング。毎年オフに行うトレーニングに10月から取り組み、2月に始まる春季キャンプでアピールできるよう照準を合わせていた。1月に例年に早いペースでバットを振り始めた。しかし、キャンプインまで1か月を切っても、松中のもとにはどこからもオファーが来ない。それでも諦めなかった。いくつかの球団関係者に「テストを受けさせてほしい
と連絡。野球を続ける道を懸命に探した。もう42歳。厳しいことは嫌と言う程わかっていた。
2016年2月1日。12球団の春季キャンプがスタートした。その頃松中は、社会人時代のチームにお願いし、練習を続けていた。しかし、キャンプ参加のオファーがないまま、プロ野球はオープン戦が始まり、新たなシーズンへの戦いが本格化していた。現役続行を諦めなかった松中に突き付けられた厳しい現実だった。そして2月20日。松中は、支え続けてくれた妻と応援してくれた息子たちに自らの決断を伝える。現役続行にかけた松中信彦の挑戦は、このとき終わった。
平成唯一の三冠王・松中信彦(42)。最後まで自分を信じ、現役を続けようとしたその不屈の魂は、若鷹たちのみならず、プロ野球界の財産となるだろう。
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