「フードバンクかわさき」の高橋実生代表(左)。ボランティアの支援もあって、毎日利用者の生活を支えている。
「フードバンクかわさき」の高橋実生代表(左)。ボランティアの支援もあって、毎日利用者の生活を支えている。

 5キロの米袋を段ボールの底に入れて、その上にレトルトのカレールーや調味料、インスタント麺などを重ねていく。

「まだ何か入るかな」

 男性がつぶやいて、隙間にお茶の葉のパックを押し込んだ。この小さな段ボールが「命の絆」につながる。

「年末年始は忙しかったですね。1月1日に緊急支援のメールが来て、2日には食料品を発送していました」

 「フードバンクかわさき」代表の高橋実生さんはそう語る。高橋さんたちが生活困窮者の食糧支援をするこの団体を川崎市内のオープンスペースに立ち上げたのは2013年のこと。現在の利用世帯は160世帯。2、3年以上にわたる継続利用者は全体の4分の1で、自立して利用を止める人(高橋さんたちは「卒業」と呼ぶ)の方が多いが、毎週1組は新規の利用者が増える。

憲法25条なんて、この国で守られているんですかね

 利用者は生活困窮者で、生活保護を受給している人もいない人もいる。福祉事務所で生活保護申請を断られて、こちらに案内されてくる人もいる。

 「そういう人でもまず話をします。門前払いはしません」

 というのは、高橋さんも生活保護の受給者だからだ。夫のDVを理由に2人の子どもを抱えて離婚し、精神障害の障害者手帳も持っている。

 「自分が支援を受ける側に立ったとき、法律は何の役にも立たないことがわかりました。自分の居場所がなくて苦しくて、自殺未遂をしたこともあります。いま同じような境遇にいる人でも、少しでも『道』があれば歩ける。その気持ちで活動を始めました」

 「フードバンク」と名のつく組織は全国にあるが、全国組織というわけではなく、多くは「かわさき」のように独立した団体だ。通常、支援対象は主に福祉施設で、個人向けが中心の「かわさき」のようなケースは珍しいらしい。

 関与している行政のうち、統計をとったり各地のフードバンク活動を紹介したりしているのが農林水産省だ。同省はフードバンク活動の意義を「食品ロスを削減するため、こうした取り組みを有効に活用していくことも必要」と位置づけている。

 首を傾げる人も多いだろう。高橋さんも話す。

「これ、生活困窮者の問題ですよね? 食品ロスから語られるのは変だと思います」

 フードバンクに企業から寄付される食料品は賞味期限切れ間近なものが多いから、食品ロスの解消に結果としてはつながる。しかしまず人を救うための活動が、食品ロスの観点から語られるところに、現在の福祉政策の在り方が現れてはいないだろうか。

 高橋さんは苦笑いする。

 「憲法25条なんて、この国で守られているんですかね」

健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

 日本国憲法25条にこうある。

《1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない》

 憲法25条は「生存権」と呼ばれ、生活保護など社会保障の憲法上の根拠となる条文である。

 日本国憲法はGHQ案が「下書き」になっていることはよく知られているが、実はそこに25条の「健康で文化的な最低限度の生活」という文言はない。

 この趣旨の文言を憲法改正草案として初めて盛り込んだのは、戦後すぐに立ち上がった民間団体「憲法研究会」だった。1945(昭和20)年12月に彼らが公表した「憲法草案要綱」にこうある。

《一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス》

 この条文を付け加えることを提唱したのは、経済学者の森戸辰男であった。その源流はドイツのワイマール憲法151条1項に由来する。

《経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない》
 森戸はワイマール・ドイツに留学した経験を持ち、ワイマール憲法に深い共感を持っていたという(遠藤美奈「『健康で文化的な最低限度の生活』再考」P108、『憲法と政治思想の対話』所収)。

 憲法研究会は元東京大学教授の高野岩三郎、在野の憲法史研究家の鈴木安蔵、先述の森戸らによって1945(昭和20)年11月5日に旗揚げされた。どの政党よりも早くできた彼らの草案は新聞の一面に紹介された。また、GHQでのちに憲法改正問題の中心人物となるマイロ・ラウエル陸軍中佐は「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と高く評価したという。

日本人の手によって完成した「生存権」

 しかし1946(昭和21)年2月13日に日本政府に手渡されたGHQ案では、生存権の規定はこうなっていた。

《第24条 法律は、生活のすべての面につき、社会の福祉並びに自由、正義および民主主義の増進と伸張を目指すべきである》

 これがGHQと政府の調整によって、帝国議会に提出されたときの政府案はこうなった。

《政府案23条 法律は、すべての生活部面について、社会の福祉、生活の保障、及び公衆衛生の向上及び増進のために立案されなければならない》

 憲法25条で印象的な「健康で文化的な最低限度の生活」という文言がない。憲法改正を具体的に議論する芦田均を委員長とする通称・芦田小委員会で、8月1日、この点が議論になった。

 憲法研究会の森戸は、社会党代議士として小委員会のメンバーでもあった。森戸は「健康で文化的な」という文言を付け加えるよう主張した。芦田が個人の尊厳を規定した憲法12条(現行憲法でいうと13条)に「その生活は保障される」という文言を挿入することを提案したが、森戸は「具体的に書かねばならない」と重ねて主張した。また同じく社会党代議士の鈴木義男も「生存権は最も重要な人権」と強く主張し、結局、彼らの主張通りの文言が挿入されることになったのである(尾形健『社会変革(social revolution)への翹望』、南野森編『憲法学の世界』所収)。

 この議論の前の5月19日、皇居前で25万人が集結する「食糧メーデー」が開かれていた。そこで掲げられたプラカードにはこう書かれていた。

《ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ》

 食糧不足が日本を覆い、餓死者が出ていた時代である。そこで「日本国民は健康的で文化的な最低限度の権利を有する」とは、なんと心強い言葉だっただろうか。

「施し」ではなく国の「積極的な責務」

 1947(昭和22)年5月3日に日本国憲法が施行されて、最初に憲法25条の法的性格を分析したのは民法学者の我妻栄である。我妻は同年に出版された「新憲法の研究」という論文集のなかで、25条を「生存権的基本権」と呼び、伝統的な「自由権的基本権」と区別して、

《現実の社会において、かかる利益を享受し得ない者に対して、国家が現実にこれを与えることに努力すべき積極的な責務を負託したのだと解さねばならない》

とした。従来の生活保護制度が救貧政策による国家の「施し」というニュアンスであったものが、憲法25条によって一歩前進した。

 だが、最高裁判所は生存権について行政に広い裁量権を認めている。なぜそうなるのか、生存権の法的性格をかいつまんで説明する。

 もともと人権は我妻栄が指摘するように「自由権的基本権」から始まる。これはたとえば憲法21条の「表現の自由」のように、「○○の自由」と付くものだ。個人の自由を最大限に尊重し、国家からの干渉を制限するために存在する人権である。

 しかし憲法25条や26条の「教育を受ける権利」などは、国家の積極的な関与を求める権利である。これらを自由権に対比して社会権と呼ぶ。社会権は憲法で定められた人権を活かすために、一般の法律の存在を前提とする。25条の場合、「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的な中身は、法律に委ねられる。

「600円では暮らせない」として起こされた朝日訴訟

 その中身が最初に問われたのが、憲法施行から10年たった1957(昭和32)年に始まった朝日訴訟である。

 国立岡山療養所に入所していた結核患者の朝日茂さんは、生活保護法に基づき、毎月600円の生活扶助と全額給付の医療扶助を受けていた。ある日、それまで行方知れずだった兄が見つかり、兄が苦しい家計の中から朝日さんに毎月1500円を送付してくれることが決まった。

 ところが地元の津山市社会福祉事務所は朝日さんへの生活扶助を廃止した上で、仕送り金1500円から生活費600円を除いた900円を朝日さんの診療に要する医療費に充当し、不足分について医療扶助を行う決定をくだした。つまり、朝日さんのお兄さんから仕送りがあっても、国庫の負担が減ることだけに利用され、朝日さん自身の生活は全く変わらないことになったのである。

 やっと苦しい療養生活から抜け出せると喜んでいた朝日さんは、手元にくるお金が以前と変わらない金額であることに落胆し、「600円では憲法に掲げる健康で文化的な最低限度の生活を満たしていない」と、処分の取り消しを求めて厚生大臣を相手に行政訴訟を起こした。

  憲法25条を巡る初めての裁判は全国から大きな注目を集めた。ポイントは、なにが「健康的で文化的な最低限の生活」なのか、裁判所が判断出来るのか、ということだ。そのころの通説的理解では、25条は政府への「努力義務」を課しただけであり、生活保護の具体的な内容(たとえば金額など)は、専門的知見を持つ所轄官庁の裁量の範囲内とする、というものだった。たしかに「健康で文化的」という言葉は抽象的である。また予算の限度も指摘されていた。

 だが、裁判を担当した東京地裁の浅沼武裁判長は裁判所が判断をすることに踏み切った。そのころの思いを左陪席の新任判事として審議に加わった小中信幸氏は後にこう説明している。

 「(25条の通説的解釈について)このような解釈は、憲法25条が保障する生存権的基本的人権の内容を実質空洞化するものであること、憲法25条の理念は、生活保護法の規定を通じて国民に対し、「人間に値する生存」あるいは「人間として最低限度の生活」を権利として保障したものであって、そうである以上、国はこの保障を実質化、具体化する義務を負うという考えに達した」(法学セミナー2011年2月)

亡くなった患者の寝間着をとりあっている

 前例もない裁判のために、提訴から判決まで3年かかり、その間に呼んだ証人は原告側・厚生省側あわせて約30人という。また浅沼裁判長ら自ら療養所に足を運び、朝日さんの証言を聞いた。浅沼裁判長は小中氏にしばしば、「憲法は絵に描いた餅ではない」と語っていたという。

 証人台に上がった療養所の看護婦らは、所管の厚生省相手の裁判にためらいながらも、患者たちの寝間着が現物支給になっており、亡くなった患者の寝間着を争うようにとりあっている実態を証言した。また、朝日さんが受給していた毎月600円は「日用品購入相当額」とされていたが、基準となる日用品について、シャツは2年に1枚、パンツは1年に1枚、タオルは年に2本、ちり紙は月ひと束と計算されていることもわかった。これは当時でも劣悪な入院環境で、これが憲法に保障された「健康的で文化的な最低限度な生活」なのか、憤激した人々も多かった。

 厚生省側は早稲田大学の末高信教授が証言した。

 「日本のチベットといわれる岩手県の山岳地帯や、離島農村地帯の人たちは、着たきりの服か着物であり、子どもは裸足で走り廻っている。(中略)生活扶助ではちゃんと予算に肌着の代金が出されていたり、身の回り品として草履だの下駄だのが買えるようになっているのはけっこうではないか。(中略)日本には生活保護水準かあるいはそれとすれすれの人が一千万人近くいる。このボーダーライン層の人びとに、いますぐ生活保護法を適用すれば、国の財政がもたないであろう。ボーダーライン層の人びとも、肉体的に生存を維持しているので保護を与える必要はない。(後略)」

 つまり朝日さん以下の生活を送っている人はまだ多く、彼らから比べるとまだマシではないか、ということである。生活保護受給権が25条で定められた人権という考えはなく、「施し」であるという意識をうかがうのは私だけだろうか。

朝日さんの遺影を掲げ「朝日訴訟を勝ち取る大行進」をする支援たち(毎日新聞社/アフロ)
朝日さんの遺影を掲げ「朝日訴訟を勝ち取る大行進」をする支援たち(毎日新聞社/アフロ)

一審勝訴も、二審で一転敗訴

 1960(昭和35)年10月19日、一審は、朝日氏に対する福祉事務所の決定は憲法25条に違反して無効、と判決した。

 判決はまず憲法25条が努力規定という通説理解に対して、

《もし国が(中略)この憲法の条項の意味するところを正しく実現するものでないときは、ひとしく本条の要諦をみたさないものとの批判を免れないのみならず、もし国が生存権の実現に努力すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような行為をするときはかかる行為は無効と解しなければならない》

と、具体的な効力を認めた。

 また「健康で文化的な生活」については、

《「健康で文化的な」とは決してたんなる装飾ではなく、その概念にふさわしい内実を有するものではならないのである。(中略)国民が単に辛うじて生物としての生存を維持できるという程度のものであるはずはがなく、必ずや国民に「人間に値する生存」あるいは「人間としての生活」といい得るものを可能ならしめるような程度のものでなければならないことはいうまでもないだろう》

 判決はさらに先述した厚生省側の末高証言を捉えて、

《最低限度の生活水準を判定するについて注意すべきことの一は、(中略)いわゆるボーダーラインに位する人々が現実に維持している生活水準をもって直ちに生活保護法の保障する「健康で文化的な生活水準」に当たるとは解してはならないということである。(中略)健全な社会通念をもってしてこれらの生活が果たして健康で文化的な最低限度の生活水準に達しているかどうかは甚だ疑わしいといわねばならないからである》

と批判し、さらに財政との関係においても

《最低限度の水準は決して予算の有無によって決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである。その意味では決して相対的ではない》

とした。

 しかし二審は「毎月600円は不足ではあるが、違法とまでは言えない」として、朝日さんの訴えを退けた。朝日さんは最高裁に上告するが、その途中で死去し、養子になった人物が訴訟の継続を求めた。だが最高裁は生活保護受給権は一身上のもので承継できないとして、訴訟の終了を宣言した。そして「なお、念のために」として、憲法25条1項は直接個々の国民に対して具体的な権利を付与したものではない、具体的な権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によって、はじめて与えられているというべきである、とした。

10年間で生活保護費は600円から2700円に

 では朝日さんの裁判は無駄だったのだろうか。実は朝日さんが訴訟をしていた10年間で、生活保護費は10回改訂されて、600円が2700円になっている。憲法訴訟は社会的に大きく報じられて国民の関心事になることが多く、訴訟の勝ち負け以前に裁判自体が世論に影響を与え制度改革を促すことがある。朝日さんが「人間裁判」と名付けた文字通り命を掛けた10年は、大きな意味があった。

 朝日訴訟のあとも、堀木訴訟など社会保障制度を巡る重要な裁判が1970年代には相次いだが、どれも原告は敗訴している。その後、社会が豊かになりその手の裁判は減ったが、社会保障費が減額される事態になり、生活保護老齢加算廃止訴訟など、再び憲法25条を巡る裁判が全国規模で起きている。

 しかし、最高裁が憲法25条の具体的権利性を否定しているので、原告はなかなか勝てない。2004年には福岡で、娘の高校進学のために生活保護費から毎月3000円を学資保険に積み立て、満額44万円を受け取ったところ、地元福祉事務所からそれが「収入認定」され、保護費を減額されるという事態が起きた。さすがに最高裁も「受給者が節約して貯蓄に回すことは可能で、法律は保護費を期間内に使い切ることまで要求していない」として、原告側を勝たせた。当たり前の話を、2000年代に入ってもまだやっているのである。

 裁判だけではない。

 後退していく社会保障制度によって社会から取りこぼされていく人たちを前に、国はあまりに無策だ。現在、子どもの貧困は6人に1人といわれる。政府はその対策で民間資金を活用するため昨年10月に「子供の未来応援基金」を設立したが、昨年12月6日の時点で集まった金額はわずか315万円である。大口の企業からの寄付が集まっていないという。しかし、これは本来は募金のようなもので解決すべきものではなく、政策や税金の投入によって解決されるべきものではないだろうか。ここでは憲法25条が無力化されて、国の努力義務まで放棄しているように思える。

 生活保護を申請しに行っても、いわゆる「水際作戦」で窓口で追い返される事態も報告されている。「フードバンクかわさき」の高橋さんも、そういう利用者からよく相談を受ける。

 「それで私たちが付き添って窓口に行くと、受理するんです。制度があってもケースワーカーや窓口の人によって対応が全然変わってくることも珍しくありません」

 また受給者に対する世間の風当たりも強い。これは朝日さんの時代からそうで、一審で勝訴したあと、嫌がらせや中傷の手紙が全国から届いたとその著書で公表している。

 日本国憲法は「押しつけ憲法」だという人々がいる。たしかに下書きはGHQで作られたことは否定できない事実だ。しかし「仏作って魂入れず」という言葉もある。日本国憲法という「仏」の下絵はGHQが作ったが、その表情、手の動きなど細かな意匠は森戸ら日本人によって描かれ、朝日訴訟一審の裁判長浅沼武のような人々によって魂が込められてきた歴史があるのだ。

 生存権は「施し」でもなければ「絵に描いた餅」でもなく、戦後の日本人が発案して支えた「権利」であることを改めて主張したい。

【参考文献】
記事中に紹介したもののほか、
「人間裁判 朝日茂の手記」(朝日訴訟記念事業実行委員会編・大月書店)
「日本国憲法の誕生」(古関彰一著・岩波書店)
「憲法制定前後」(鈴木安蔵著・青木書店)
「生存権・教育権」(中村睦男、永井憲一著・法律文化社)
「日本国憲法成立史」(佐藤達夫著・有斐閣)
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