クリエイティブソフトウエア世界最大手の米アドビシステムズは、パッケージソフトの販売を完全に終了し、クラウド版に舵を切りつつ、飛躍的に成長を続けている希有な企業の一つだ。(関連記事:「過去の成功」を捨てられない全ての企業へ

 そのアドビシステムズが、2012年から社内の新規開発プロジェクトとして「キックボックス」という取り組みを行っている。キックボックスとは、文字通り箱。箱の中身は、付箋紙やチョコレートバー、スターバックスのギフトカード、そして1000ドル分のクレジットカードだ。社員は、箱の中身を自由に使い、自身のアイデアをある程度の形にすることができる。場合によっては、一部の利用者に使ってもらうなど、市場調査も可能だ。1000ドルの使途の説明や報告は不要。すでに1400名の社員がキックボックスを手に入れ、実際にアドビの戦略に大きく影響を及ぼしたものも出てきているという。

 キックボックスを同社に導入した、クリティビティ担当バイスプレジデントのマーク・ランドール氏に話を聞いた。

米アドビシステムズでクリティビティ担当バイスプレジデントを務めるマーク・ランドール氏
米アドビシステムズでクリティビティ担当バイスプレジデントを務めるマーク・ランドール氏

 なぜ、キックボックスを導入したのでしょうか。

マーク・ランドール氏(以下、ランドール氏):私がアドビに入社したのは2008年です。それまで3つのベンチャーを立ち上げ、どちらかというと起業家やベンチャーコミュニティーに近い人間でした。

 アドビに入社して感じたのは、伝統的な良質な会社ではあるけれども、少なくとも私が慣れ親しんでいた文化とは違うなということでした。リスクを怖がっているようにも見えました。

 例えば、何かを社員が試したいと思っても30~50パーセントの成功率が見込めないと試せない。この数値は、スタートアップとは全然違う基準です。さらに新製品のサイクルも長い間検討を重ねて、1年~1年半に一度、新商品を投入する。1つの商品について、投資額は50万~100万ドル。時間もコストも非常に大きな投資をしていました。

 そうした背景もあり、2012年に、もっと社員が気軽に立ち上げられるようなものを考えてほしいと経営陣から言われたのがきっかけです。

 キックボックスの特徴はなんでしょうか。

お金を委ねられることで人は成長する

新規開発プロジェクトのキックボックスは、案件創出のみならず、「失敗を恐れない」企業文化を根付かせる狙いがある
新規開発プロジェクトのキックボックスは、案件創出のみならず、「失敗を恐れない」企業文化を根付かせる狙いがある

ランドール氏:大きく3つあります。

 まず、ありがちな「経営陣に真っ先にプレゼンする」をなくしたことです。最初に必要なのは、経営陣へのプレゼンではなく、本当の利用者からの声やデータです。経営陣へのプレゼンの前に、最初に市場に聞く。これによって、経営陣にアイデアが届くときはすでにその成功率がある程度数字として読めるようになり、経営陣はそのアイデアに対して“なんとなく”NGを出すこともできなくなります。

 会社にとっても、市場に受け入れられなかったアイデアは淘汰され、会社が判断していたら見落とされていたような斬新なアイデアに巡り会う可能性が高まります。

 もう1つは、アイデアがあれば、それを自分の責任で追求できるようにしたことです。ある社員が思い付いたアイデアを、会社にいながら、誰かに悪いアイデアだと決めつけられたり、会社に監督されたりすることもなく、追求できる。

 3つ目は、どのようにお金を使うかを従業員に学ばせる機会にもなることです。お金を与えることは、社員の意見に価値があるということを伝えることにもなり、信頼感が生まれます。これは「君たちは会社にとって重要だ」「イノベーションを期待している」ということを言葉で何十回伝えるより効果がある。お金を与えて任せることが大事なのです。

 さらに、お金を委ねられることで、自分がそのアイデアの最終決定者となり、責任感も生まれ、アイデアの選び方も変わってきます。ただ面白いのではなく、コストを踏まえてビジネスとしてどうなのか、という観点でアイデアを見据えるようになるのです。ちなみに、渡した1000ドルは、ほとんどのケースですべて使い切らずに戻ってくるケースが多いですね。

 2015年の米フォトリアの買収など、キックボックスがアドビ本体の経営戦略に影響を与えた例もあるようですね。

ランドール氏:当時、アドビ自体がフォトストックのようなコンテンツを扱うサービスのアイデアを模索していました。一方、キックボックスではコンテンツとメタデータをインデックスするというテストをしていました。どんな索引を使えば、適切なコンテンツを探せるのか、といったようなことです。

社内からアイデアが生まれるプロセスを用意

 キックボックスでの調査の結果、この作業というのが膨大であることが分かりました。競争力のあるサービスを作るには、2000万とか4000万のデータが必要で、それぞれのデータに何十というキーワード設定が必要だというのです。つまり、コンテンツデータの量以上に重要なのは、そこにどんな検索キーワードを設定するか、ということだったのです。

 それは、人がどんなキーワードで検索した時に、どんな画像を結果として出すべきかを検証しなければならないということです。これはある種、人の考えや行動を学ぶことに近い。その作業をゼロから立ちあげようとすると相当のコストがかかります。そうした調査から、フォトストックサービスは、自らやるよりは、買収した方がコストやスピードの面でメリットがある、という判断に結びつきました。

 新規開発については、「市場に聞くな」というセオリーもあるかと思いますが、キックボックスでは「市場に聞け」のアプローチをしています。前者のアプローチについてはどう思いますか。

ランドール氏:アドビの中でキックボックス1つが新規開発を担っているということではありません。おっしゃるように、いわゆる「市場に聞かない」方法も持ち合わせています。つまり、人々の頭にないような驚きのある発明のような類いですね。

 アドビでも、リサーチラボで博士号を持ったような人材が大学などと協力して、技術的なブレイクスルーを探し出したり、製品チームでも同じような新規開発が行われたりしています。

 大切なのは、社内のどこからでもアイデアが生まれるプロセスを用意しておくことです。アドビで言えば、キックボックスのような起業家のようなアプローチ。ラボのようなカッティングエッジな技術チームによる新規開発。もう一つが製品開発チーム。もちろん、経営陣でもアイデアは日々検討されています。

 アイデアは、そこかしこで生まれます。一方、アイデアがあっても、それを見つけ出す道筋がなければ、そのアイデアはないも同然です。それをなくす一つの方法がキックボックスというわけです。

 (米アップルの創業者の)スティーブ・ジョブズのような、今世の中に存在しないものを1人のビジョナリーのインプットから成り立たせるのは、一部のタイプの製品に限られると思っています。一部のシニアマネージメントから生まれるアイデアだけではなく、アイデアを受け入れる「入力装置」をたくさん用意しておくということを私たちはやっているのです。

イノベーションを作るのではなくイノベーターを作る

キックボックスに入っているクレジットカード。1000ドルまでは社員が自由に使っていいが、「ほとんどのケースですべて使い切らずに戻ってくるケースが多いですね」とランドール氏は言う。
キックボックスに入っているクレジットカード。1000ドルまでは社員が自由に使っていいが、「ほとんどのケースですべて使い切らずに戻ってくるケースが多いですね」とランドール氏は言う。

 キックボックスは、アドビに何をもたらしましたか。

ランドール氏:キックボックスはイノベーションを作るのではなく、イノベーターを作るためのものです。

 失敗を回避するのではなく、失敗に慣れること、新しいことを実践すること、リスクテイクすること、そこから学ぶこと、こういったことが習慣になれば、今までトライしなかったことにもトライするようになる。そのようなイノベーターが社内にたくさん生まれることが重要でした。コストや時間をあまりかけずに、失敗からたくさんのことを学んでステップアップしてほしいというメッセージでもありました。これは会社にとって大きなカルチャーシフトです。

 社員ひとり一人が、より消費者にフォーカスし、よりデータにフォーカスすることも学べます。そういった意味で「カルチュアル・レボリューション・システム(企業内の文化改革システム)」と言えるかもしれません。

 大切なのは、どう失敗するのか。そして、そこから何を学ぶのか、です。早い段階で失敗することは良いことです。それによって後の大きな失敗を回避できますし、すべての小さな失敗に小さなブレイクスルーがあるはずなのです。だから、小さな失敗はどんどんしてほしい。

 クリエイティブ(創造性があること)の反対は、ボールド(退屈)という人もいるが、僕は、「フィア(恐れること)」だと思っている。失敗することを恐れれば、クリエイティブなアイデアは生まれない。そういう意味で、「恐れ」はクリエイティブの最大の敵です。

 新規開発の失敗率が低いのだとすると、果敢なことを試していないことの証左だと思っています。キックボックスは、失敗率を高くすることがゴールでもありました。コストと時間をかけたあげく、危機的な失敗をするのではなく、より早く小さな失敗をたくさんすること。

 「失敗は学習だ」という新しい概念を、アドビに植え付けられていると思っています。

《日経ビジネス2016年3月28号では、アドビシステムの企業戦略を詳報しています》

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