徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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書評:木村草太著、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)

2016年11月24日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

改憲論議が盛んだった時期、木村草太氏もテレビに引っ張りだこになった憲法学者の一人で、私も彼の登場する番組の録画をYouTubeでよく見かけました。そこで好印象を抱いたので、この本、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書、2016年3月30日、第一版第三刷)を手に取るに至ったのですが、期待以上の勉強になる内容でした。

「憲法論議を正しく楽しむための一冊」をモットーにしているだけあって、身近なたとえ話に思わずクスリとしてしまいます。しかし、本質的に法学に欠かせない論理性をもった説得力があり、世間の憲法論議の論点整理とその欠陥・矛盾点が分かりやすく提示されています。この本の良い点は、平易な言葉遣いだけでなく、各章の量の適正さ、「そろそろ情報が多くなり過ぎになってきた」と感じるころに「まとめ」が来るようになっている、その構成のすばらしさです。参考書のようにそのまとめ部分が囲い込み記事のようになっていたら、その部分だけを読み直すことが容易にできるので、なおよかったのですが…

以下目次:

はしがき

序章 日本国憲法の三つの顔

1.憲法の価値をかみしめる — 国家を縛るとはどういうことか?

2.日本国憲法の内容を掘り下げてみる — いわゆる三大原理は何を語っていないのか?

3.理屈で戦う人権訴訟 — 憲法上の権利とはどうやって使うのか?

4.憲法9条とシマウマの檻 — どのように憲法9条改正論議に望むべきか?

5.国民の理性と知性 — 何のための憲法96条改正なのか?

6.日本国憲法の物語 — 事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん

あとがき

日本国憲法条文

日本国憲法とは何かを問う序章は、世間の憲法論議がなぜにかくも感情的なのかを理解する上で重要な側面を指摘しています。

日本国憲法の第一の顔は「国内の最高法規」で、ここに感情の入り込む要素は一切なく、法技術文書として理解されるべきで、法学部で学ばれるべき「内容」です。それは第1-3章で詳述されています。

第二の顔は「外交宣言」という国外へ向けた国の顔の役割で、護憲派の一部はこの点を護憲の論拠の一つに挙げることが多いですが、改憲派には概ね無視されいる部分です。「日本はいかなる理由があっても外国を攻撃しません」という平和主義の建前は、日本人が海外で中立的な支援活動を行う上で、相手の信頼を得る根拠になってきたことはよく指摘されています。この側面は第4章で掘り下げられています。

そして、憲法の第三の顔は「歴史物語の象徴」という側面です。どの国の憲法もある日突然降って湧いてくるものではなく、革命や独立や戦争など歴史的な出来事のある種の結果であり、象徴であります。そしてこの側面こそ、感情が深く関わってくるわけです。その点に関しては第6章に詳述されています。

改憲論議に関して興味深いと思った指摘は、なぜ「憲法改正に賛成ですか?」という質問が成り立つのか、という説明です。日本のメディアの影響をあまり受けていない私にはこの質問は曖昧過ぎて、単純なイエスかノーで応えることは不可能です。仮にこういう質問をぶつけられたとしたら、「憲法のどの条項をどのように改正するのか」という点を先ず明らかにしようとしますし、その上で、私自身の意見、例えば環境権の強化だとか、衆院解散の恣意性を正すとか、自衛とは何か、自衛隊の役割とは何かを盛り込むべきだとかそういったことを答えると思います。でも日本ではこのあいまいな質問がなぜか成立してしまっているようです。それは聞く方も応える方も、それが9条に関することであることを了解しているからだ、ということを著者は指摘しています。そう、まるで憲法には9条しか重要なことがないかのような世間一般の捉え方の問題がここに凝縮しているようです。

その9条に関する第4章で、日本国憲法第9条が、国際法の枠組み、すなわち国連憲章という大枠を考慮してみた場合、改憲派の「これを変えて普通の国になる」という論議も、護憲派の「世界に先駆けて崇高な理想を掲げた特別な条項」という主張も成り立たなくなることが指摘されています。なぜなら、日本国憲法第9条は国連憲章2条を国内法に反映させたに過ぎないものだからです。

国連憲章2条

4項 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。


つまり、国際法ですでに戦争一般を違法とする原則が確立しているわけです。ただ「違法だから止めてください」と言って問題が解決されるわけではないので、その際に国連の集団安全保障を定める国連憲章42条が生きてきます。

国連憲章42条

安全保障理事会は、第41条に定める措置〔武力を伴わない経済的・外交的措置や通信や交通の遮断などのこと〕では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍、又は陸軍の行動を取ることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

この条項に基づいて、国連軍が編成され、その指揮権は48条によって安保理が採ることになっていますが、ここまで正規の国連軍が結成されたことはかつてなく、実際的には安保理が各加盟国に「軍事的措置を勧告又は容認する」という決議を出して、各加盟国がそれぞれに決議を実現するという対応が取られてきました。

そして、こうした国連の集団安全保障による対応が間に合わない時のために、51条で「自衛権」が認められています。

国連憲章51条

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を取るまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能および責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

この文脈で、日本国憲法第9条を解釈すると、9条第1項は、国連憲章の武力不行使原則を確認した規定で、第2項は第1項の当然の帰結となります。第2項に言う「軍隊」とは第1項で言う「武力行使」のため、すなわち戦争をするための「軍隊」のことであって、国連憲章51条でいうところの自衛のために必要な最低限の軍事力を指すものではない、という解釈が成り立ち、その枠内での「自衛隊」は違憲ではないというのが過去数十年間における安定的な解釈ということになります。

また、他国の「軍隊」も基本的には戦争遂行のための組織であってはならず、あくまでも自衛権の行使と国連の集団安全保障のための組織であるはずで、そうでなければ国際法違反ということになります。

結論:憲法9条は、国連憲章という世界190か国以上が批准する条約の内容に沿ったもので、すなわち、グローバルスタンダードに則った「普通の」内容です。


これにより、改憲派の内容的な論拠は総崩れとなり、残っているのは「憲法の制定過程に問題がある」とする、いわゆる「押し付け憲法」論議となりますが、こちらも、GHQの草案を日本の法律家たちが自国の事情に適合させるようにアレンジした事実、そしてそれが国会の承認を以て新憲法として発効したことを鑑みれば、「民意が反映されていない」とは言い難いし、そもそも国民主権は新憲法で初めて定義されたものなので、「国民の意志」を根拠に新憲法を「押し付け」として否定するのはナンセンスです。

さらに「制定過程に問題がある」ということは、裏を返せば「内容には問題がない」ということになります。なのでこれを内容の変更のための根拠にすることは非論理的です。

では、改憲派の真の問題はどこにあるのかというと、本書第6章で詳述されるように、日本国憲法が「敗戦の屈辱の象徴」であるところに尽きます。つまり憲法の内容とは関係のない物語をそこに読み込んでしまっている感情論なわけです。

以上9条に関する『テレビが伝えない憲法の話』の内容をまとめ書きしてみましたが、それ以外の内容が面白くないということでは決してなく、同じように勉強になること請け合いです。