やけたトタン屋根の上の猫の愛

オチていた数日間のことだ。ふと汚いトタン屋根の上の猫を見かけた。じっとぼくを見ていた。ぼくもコイツと同じだ。やけたトタン屋根の上で踊るだけだ…

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テネシー•ウィリアムズの戯曲を再読したいと思って本棚を探したがなかった。どうやら引越で捨てた方だ。読めばきっとオチた心をアゲられる淡い期待もあった。捨てた本を定価で買いたくないので、秋葉原のBookoffに寄ると、無い。ちぇ…JRに乗って松戸に着いた。ここにもBookoffがあったなと立ち寄ると…

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あった。108円、煩悩の数。まだ神様はぼくを捨てていない。

1955年に初演された戯曲『やけたトタン屋根の上の猫』は、人生に敗れ、愛に敗れた夫婦ブリックとマーガレットを軸に、ガンで死期間近な農園主のおじいちゃん、その財産を狙う長男夫妻らが、群立し対立する数時間を描く。今読んでもその迫力は色褪せないどころか、中年の今読むと一層人生の惨めさ、正直に生きる困難さが見える。

同性愛らしい夫と没交渉になったマギー(マーガレット)は、「近頃あたし、やけたトタン屋根に追い上げられた猫のような気がしているの!」とブリックに叫ぶ。ブリックは平然と「じゃあ降りればいいじゃないか」と言ってのける。だがマーガレットは身悶えして拒否する。なぜか。ブリックをまだ愛しているからでもあり、相続する財産に欲があるからでもある。さらにブリックを敗北者に追い込んだ自分の罪を償いたい思いもある。だから熱い屋根から降りるわけにゆかない。ブリックもまた降りれない猫である。人生の欺瞞、汚いものに耐えきれず酒びたりになる。カチっという音が頭でするまで飲むしかない。

テネシーウィリアムズは「たった数時間のドラマに救済はありえない」として残酷なエンディングなのだが、実はただ心の嵐のような劇ではない。劇作家はちゃんと救済を描き込んでいる。

それは人生に大きな転機をもった人にはわかる。

たとえばぼくも愛ないし夫婦生活に破れた。どんな表現をしても誰かを傷つけるので書けない。ブリックのように寡黙になるしかない。マギーのように熱くても屋根で踊るしかない。

劇の最後でマギーは噓をついてブリックを求め、ブリックは悲しい笑みを浮かべてそれに応えた。苦難の中でも人びとは「それでも人を愛する」。それが唯一無二の救済なのである。

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現実の猫は、するりと降りれますね…(^^)

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