(日経ビジネス2015年10月12日号より転載)
高度成長期以来の東京一極集中是正策はほとんど空振りに終わった。「地方」「政治」「官」の甘い取り組みが、逆に地方の力を弱めてきた。ヒトの流入が縮小すれば、東京の成長に限界が忍び寄る。
かつて青森県八戸地区に大製鉄会社を作ろうという計画があった。1962年、日本中が高度経済成長に沸き立っていた時代のことだ。地元に産出する砂鉄を使った大規模工場を建設するという大型プロジェクトだった。
地元には東北の寒村を工業都市に生まれ変わらせ、「首都圏に流出する若者を地元に残そう」という熱い思いがあった。63年にはむつ製鉄が設立され、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)などとも提携し、計画は動き出した。
ところが、わずか2年後に事業は白紙となり、会社は解散した。既に製鉄は鉄鉱石を使った高品質銑鉄の時代に入り、砂鉄需要が増える見込みがなくなったからだった。工業化を焦るあまりの無理な計画の限界が露呈、大都市にも対抗できる拠点作りのもくろみはついえた。今や青森県のむつ小川原開発計画の担当者さえも「計画の記録はほとんどない」と言うほど。まさに一炊の夢で終わった。
一極集中是正はゆがめられた
戦後70年の日本経済は、東京(首都圏)と地方の“対立”の歴史でもあった。ヒト・モノ・カネが東京に集中した結果、首都圏は栄える一方で、過密と地価高騰の副作用に悩まされた。地方はヒトと企業の流出によって経済が次第に停滞。やがて農漁村地区から過疎化していった。東京一極集中の是正は、国策でもあり、地方の願いでもあった。下北半島に大製鉄会社を興すという今では想像もつかない計画は、その中で生まれたものだった。
東京一極集中の歴史は3期に分かれる(上のグラフ参照)。第1期は50年代から73年頃まで。高度成長期に当たる。第2期は80年代のバブル景気の頃。そして第3期は90年代半ば以降で、現在まで続いている。第1期と第2期以降には違いがある。第1期は首都圏だけでなく、大阪圏や名古屋圏にも人が集まったが、第2期以降、大阪圏は人口流出に転じ、トヨタ自動車の本社を持つ名古屋圏も流入超過はなくなり、完全に東京一極集中となった。
東京一極集中是正の取り組みは、この間、途切れることなく続いてきた。にもかかわらず流れを止められなかったのはなぜか。そこには、取り組みの効果を弱める3つの圧力があった。
一つは「地方の圧力」である。起点は高度成長期に遡れる。その初期には京浜、中京、阪神、北九州の4大工業地帯を中心とした太平洋ベルト地帯に、港湾や道路といったインフラの整備が進み、それを目当てに企業の投資が集中した。
結果、工業地帯と地方の所得が大きく開いた。例えば大分県は、県民1人当たり所得が全国平均より33%も低かったというほどだ。
これに「地方の不満が爆発した」(国土交通省のある官僚)。それが最初に噴出したのが、2015年まで7回策定された国土開発計画の第1弾、全国総合開発計画だった(一全総)。1962年10月に閣議決定した一全総の柱は新産業都市の建設。地方に大規模な産業拠点を築き、人と企業を移して、東京などへの集中を防ごうというものだった。
ところが、どこに拠点を置くかを巡って議論は迷走した。「計画を策定し始めた時、担当者が考えていたのは、東京、名古屋、大阪、北九州など5大都市以外に、全国で3~4カ所、新産業都市を設けるというものだった。ところが、計画策定を聞きつけた地方から猛烈な自薦攻勢がかけられてきた」。計画を立案した経済企画庁に旧運輸省(現・国土交通省)から出向し、後の全総にも関わり続けた栢原英郎は、当時をそう振り返る。
むつ製鉄の地元、八戸地区もその一つ。強烈な陳情攻勢で新産業都市は、たちまち15に膨れ上がる。すると今度は「他地域よりも発展が進んでいる」として外されていた太平洋ベルト地帯の都市が猛烈に逆襲してきた。結局、茨城県・鹿島、静岡県・東駿河湾など6地区が新産業都市とほぼ同じ開発を行う工業整備特別地域として指定されることになった。64年のことだ。
こうした地方の攻勢には、当然のように政治家も乗っている。開発計画に圧力をかける2つ目の勢力である。
一全総に続く新全国総合開発計画(新全総)が策定された69年に衆院議員になった渡部恒三は、その時代の雰囲気をこう振り返る。「(地元の)福島県会津若松市で育った若者が、戦後はみんな東京に出ていっていた。東京ばかりが良くなる。地方は衰退するばかり。何とかしなければいけないという切迫した思いが地元には広がっていた」。
第1期の一極集中に対する是正策としての一全総と新全総が十分な効果をもたらさなかったのは、この両者の圧力が計画を膨れ上がらせたためだった。新産業都市などの候補が大幅に増えたため、成功の可能性の高い重要な候補に集中投資ができなくなった。
さらに個々のプランの中に甘いものが交ざっていても、関係する国土庁や建設省(ともに現・国土交通省)、通産省(現・経済産業省)などの省庁は、すべて同等に許認可などの事務調整をせねばならず、作業が遅れる原因にもなった。結果として、全体の計画遂行力は大きく損なわれることになった。
●東京一極集中を巡る政策や人口などの動向
年月 | 項目 | 概要 |
---|---|---|
1950年代後半~60年代 | 3大都市圏へ人口大移動 | 高度成長時代、首都圏、名古屋圏、大阪圏へ地方から人口が大移動した。東京一極集中の第1期でもある。 |
1960年7月 | 池田勇人内閣発足 | 「国民総生産と所得を10年で倍増する」成長政策を打ち出し、高度成長時代へ。 |
1962年10月 | 全国総合開発計画(一全総)閣議決定 | 全国に新産業都市など工業の拠点都市を設け、人口分散を図った。 |
1964年 | 工場等制限法成立 | 大都市への工場立地を制限する法律が成立。以後、70年代までに、大都市の過密対策で工場三法が制定された。 |
1966年3月 | 総人口1億人突破 | 日本の総人口が1億人を超える。 |
1969年5月 | 新全国総合開発計画(新全総)閣議決定 | 全国に高速道路網、新幹線の整備を打ち出した。 |
1972年11月 | 田中角栄内閣、列島改造計画を決定 | 田中首相が東京一極集中是正を狙い、列島改造計画を打ち出す。 |
1977年11月 | 第3次全国総合開発計 画(三全総)閣議決定 |
全国に44カ所のモデル定住圏を設定。医療・文化などの環境整備を図った。 |
1980年代 | 第2期東京一極集中 | 80年代、首都圏にだけ人口が流入。バブル経済がピークを迎え、地価が高騰した87年まで流入増が続いた。 |
1987年6月 | 第4次全国総合開発計画(四全総)閣議決定 | 高規格幹線道路を全国に1万4000km張り巡らすとした。一方、産業拠点都市整備計画も復活。 |
1992年 | 「国会等の移転に関する法律」成立 | 60年頃から続いた首都機能移転論が再燃。移転先を検討する法律が制定された。 |
1996年以降 | 第3期東京一極集中 | 96年以降、首都圏への人口流入が再び始まる。デフレ不況の中でも東京圏はヒトを集め続けた。 |
1998年3月 | 21世紀の国土のグランドデザイン(五全総)閣議決定 | 全国を4つの国土軸に分けて地域間の連携を図るとしたが、ただの計画に。 |
2003年6月 | 三位一体改革本格スタート | 補助金圧縮・税源移譲・交付金抑制で地方の自立を図る三位一体改革が本格スタート。しかし、自立には遠い結果となった。 |
2008年7月 | 国土形成計画 | 全国を10の地域圏に分け、自立を図るとした。道州制論議の高まりを受けたが、ほぼ計画倒れに。 |
2015年8月 | 第2次国土形成計画 | 全国を農山村、都市、研究・都市型地域に分け、交流を図ることで地域振興を進めるとした。 |
列島改造論がもたらした弊害
政治の圧力は別の余波も生んだ。一極集中是正の動きにそれが影響を及ぼしたのは、新全総策定の後の70年代のことだった。
登場するのは渡部が行動を共にし続けた自民党の実力者、田中角栄だ。田中は72年、首相になると日本列島改造論を打ち上げ、地方への産業拡大を唱えた。全総とは何の関係もないものだったが、田中が打ち上げたことが大きかった。不動産ブームを呼び、地価が高騰し、連鎖的に新全総や、77年末策定の第3次全国総合開発計画(三全総)のコストに影響していったのだ。
数次にわたる全総を一極集中是正のための連続的な動きだとすれば、権力者が自らの思惑で投げ込んでくる政策は、時に大きな雑音となって影響しかねない。一極集中是正にとっての列島改造論はそういう存在だった。
そして、地方と政治に続く第3の圧力集団は、皮肉にも官僚自身だった。
東京一極集中の第2期である80年代のバブル期に一端がうかがえる。87年に閣議決定された第4次全国総合開発計画(四全総)は、バブルを最終的に膨れ上がらせる一因になったと言われる。
全総の初期と同様に「多極分散型国土構築」を掲げたが、その柱としたリゾート開発が発火点となった。初期の全総のような重厚長大産業での地域振興の時代は終わり、余暇を生かす産業に成長の原動力を見つけようとしたのだ。
問題となったのは、一全総の新産業都市同様、ほとんどの道府県でリゾート開発を進めるバラマキ型にしたことだ。「計画策定にあたった部局は当初、3~4か所の開発にとどめる考えだった」と旧国土庁のある元官僚は言う。
ところが、実際の候補地選定の段階になると、地方自治体の要望を取りまとめる同庁地方振興局が大幅に増やしてきた。そこにあったのは「地方の要望を聞くことで、自治体への発言力を強めたいという思惑。そして地方への許認可権限などで関連する省庁を取りまとめる主務官庁になり、霞が関での権限を強めたいという思い」(国土庁の元官僚)だったと見られる。権力に固執する官僚の特質である。
地方衰退が原因の3度目集中
90年代後半以降の第3期東京一極集中の時期、とりわけ2000年代に入ると、地方と東京を取り巻く環境はまた変わった。
「リーマンショック後の2009年に、液晶製造のNEC液晶テクノロジーと、プラズマパネル製造のパイオニアプラズマディスプレイが、それぞれ工場を閉鎖。947人の職が一遍に失われた。でも、市内で転職できたのはNECでも23%だけ。その後、大企業の進出は全くないし、状況は本当に厳しい」
鹿児島県出水市の産業振興政策係長、宗像完治は無念そうに唇をかんだ。人口5万6000人。社員の所得税に、法人税や固定資産税などを合わせて市税収入の1割を占めていた2社の撤退は、市財政に大打撃を与えた。
2000年代に入って大企業が国内工場を閉鎖したり、海外に移転する動きに拍車がかかっている。特に2007年以降は2012年末まで厳しい円高が続いた上に、リーマンショックもあり、状況は深刻さを増してきた。
第3期の一極集中の要因はここにある。円高とデフレ不況は、主に地方から雇用を奪い、賃金を低下させた。例えば2015年7月の鹿児島県の有効求人倍率は0.86倍で、東京は1.76倍。この構造は長期間変わっていない。しかも、海外に工場が移転すると、「地方からは地方法人税が失われる一方、海外子会社から東京本社への配当が増える」(宗像)ことにもなる。
つまり、地方が雇用と財政の両面で地盤沈下し、相対的に状態のいい東京にヒトが流入したというのが第3期の東京一極集中の真相だろう。
もちろん、この時期にも開発計画はある。しかし、この時期の計画は一極集中是正への実質的な対策にはなっていないのが実情だ。その一つで、2008年に閣議決定された国土形成計画は、全国を10のブロックに分け、それぞれが「自律的に発展する」としている。
「当時盛んだった道州制導入論の影響を受けたのでは」(自治省=現・総務省=出身で元自民党参院議員の久世公尭)などと言われ、評価も高くはない。
東京に今も残る課題は、長年、一極集中を成長の原動力としてきたことではないか。地方からヒトを吸収することで、消費を拡大し、労働力を賄い、多様な人材の力で付加価値を作り出してきた。若者を引き寄せれば、社会保障コストの担い手も増やせた。濡れ手に粟の構図である。だが、地方の地盤沈下と人口減は、一極集中の持続性を断ち切ろうとしている。本気の改革へ。残された時間はあまりない。
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