「燃えあがる怒りを抑えられない」。その悩みは「怒りを抑えよう」とする限り消えない。「新しい仏教」が授ける想定外の解決法とは──。

瞑想や苦行に逃げず「煩悩」に親しむ

私は禅宗の僧侶です。思うところあって、28歳で東京大学大学院を中退し、曹洞宗の修行道場に入門しました。翌年に僧侶となり、33歳のときに渡米。マサチューセッツ州の小さな坐禅堂で、2005年までの17年半、坐禅を英語で指導していました。

坐禅を組む藤田一照氏。神奈川県葉山町の「茅山荘」では、毎月数回、実験的な坐禅会を開いている。

仏教、とりわけ坐禅に関心をもつアメリカ人は少なくありません。見ることのできない神を信じなさいと言われるキリスト教に比べて、仏教のアプローチはすごく具体的です。身心を調えて静かに坐ることが、そのまま仏教を“やる”ことになるからです。

アメリカの坐禅会では、「自分自身の怒りっぽい性格に困っています。坐禅を組めば、性格を変えられますか」という相談をよく受けました。私はいつも、こうアドバイスしていました。

「人間だから何かに反応して怒るのはあたり前でしょう。怒る自分を否定せずに、そこから一歩踏み込んで『なぜ怒りというリアクションが自分に起きたのか』をよく観(み)つめてみてはどうですか。そうすれば、怒りは自分をよく知るための格好の材料になりますよ。そういうのも禅の大事な修行です」

怒りを無理に抑え込もうとしたり、怒りをあたかもないことにしたりすれば、その瞬間は取り繕えるかもしれませんが、「対症療法」にすぎません。根本的な解決を目指すためには、怒りの本当の原因を探り当てる必要があるでしょう。深く理解することで怒りの根っこが変容するのです。

仏教では、怒りを、根本的な煩悩である「三毒」のひとつとしています。三毒とは、必要以上に物を求めるむさぼり“貪(とん)”、怒りの気持ちである“瞋(じん)”、真実を理解しない愚かさ“痴(ち)”の3つです。よく誤解されているのですが、仏教は単純に「煩悩を捨てよ」と教えているわけではありません。

仏教の開祖であるブッダは、苦しみを解決しようとして、瞑想や苦行といった様々な修行を徹底的に試みました。その結果、瞑想や苦行はあくまでも苦しみからの逃避であり、最終的な解決にはならないという洞察を得たのです。そこでブッダはそれらを放棄して涼しい木陰で静かに坐り、苦しみの発生するありさまを深く観ようとしたのです。

そこに悪魔がやってきて、あらゆる手段を使って邪魔をしようとします。しかし新たな道を歩みはじめたブッダはそれと戦うのでもなく、それから逃げるのでもなく、それを平静に観察する坐禅を続けました。こうしてブッダは悪魔、つまり煩悩を否定せずに受け入れ、それと共に生きていける道を見いだしたのです。煩悩を追い払うのではなく、深く理解し、煩悩から学んでいく。坐禅とは、こうしたブッダの営みを今ここで追体験する行です。だから坐禅は、苦行ではなく、自己を深く観つめ、それに親しむ修行なのです。