タレントであり、工業デザイナーである稲川淳二さん(65歳)が、重い障害を抱えた次男について語った朝日新聞と週刊現代の記事です。


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「最低の父でした」障害者の親・稲川淳二さんに聞く(2012年5月24日朝日新聞オピニオン欄)

朝日新聞記事


 私がテレビでバカやってたころですよ。次男の由輝(ゆうき)が生まれたのは。はい、1986年です。先天性の重い病気でしてね。それからずっと障害を抱えて生きています。今度、障害者に関する法律が変わるんですって。いろいろ思うところはありますよ。障害者の父親ですから。あぁ、はい、それじゃぁ、お話ししましょうか。


■難病の次男を初めは拒絶
 そのころはね、仕事も調子が良くてね。長男も9歳になって、すごく幸せだったんです。で、子ども1人でこんなに幸せなんだから、2人ならもっと幸せになるだろうと。単純な考えですよね。


 でもって、次男が生まれたんですけど、クルーゾン氏症候群という先天性の重い病気だっていうじゃないですか。生命に別状はないのですが、頭の骨に異常があって、手術が遅れると手足にマヒが出る可能性がある、と言われました。私も頭真っ白ですよ。


 生後4カ月で、手術を受けることが決まって、その前のある日、病院に行ったんです。すると、次男を見ていた女房が「あんた、ちょっと見てて」と、用足しで個室を出て行った。私一人で次男に向き合うことになったんです。でも見るのが怖いんですよ。無責任だけど、あり得ない世界が起きていると思っているわけだから。おそるおそる見ると、次男は寝ていました。だれもいない、しーんと静まり返った病室に、「はぁ、はぁ」という、次男の小さな息の音が響いています。


 本当に許されないことですが、うちの子のことですから、こんな話をどうか許してください。私はね、次男に死んで欲しいという気持ちがあった。助けたい。でも怖い。そして悲しい。この子がいたら、女房も長男も将来、大変だろうな。よしんば助かって生きたとしても、いずれは面倒なことになるんだろうな。いろんなことを考えた。


 どういう病気かも当時はよく分かってなかったし、病室には私と次男しかいない。だれにも分からない。小さいから葬式も簡単だし。じゃあ今、自分で殺しちゃおうかな。その代わり、ずっとこいつに謝り続けて生きればいいんだ、と。


 「鼻をつまんだら死ぬだろうな」と思って、次男の鼻先にぐっと手を伸ばした。でも、鼻先数センチのところで、手がぶるぶる震えるんですよ。手が震えて、どうしてもできない。そこに女房が戻ってきたんです……。そんなことがありました。


 手術は朝から始まって、夜の8時半ごろにようやく終わった。エレベーターが開いて、おりみたいなベッドが出てきた。まわりに先生がたくさんいて、のぞくと次男が寝ている。頭は包帯だらけで、足とか腕にはチューブが何本も刺さっていた。苦しそうに呼吸をしている。


 もうね、たまらなかったです。小さな体を切り刻まれて、ぼろぼろになっても頑張っている。私はベッドにすがりついて、「由輝! オレはお前の父ちゃんだぞ。由輝っ!」と叫びました。


 実は、次男の名前をこのとき、初めて呼んだんです。それまでは、名前を呼べなかった。自分の中から抹消しようとしていたんです。心のどこかで拒絶していたんです。自分が望んだ子どもなのに、オレは命を否定した。最低です。本当に最低です。何て最低な父親なんだと。……。思いました。


 こんな最低なことを考える親なんて、きっと私だけでしょうね。障害を持つ子にも、変わらぬ愛情を注ぐのが親心ですから。


 以後、人生、がらりと変わりました。テレビのお笑いの仕事もやめました。芸能人っていうのは、身内に不幸があっても笑ってなきゃならない。陰でどれだけ泣いても苦しくても、テレビでは「はいどうも~」って、笑わせなきゃならない。もう、やかましいぐらいよくしゃべって、「あんた明るいねぇ」なんて言われていましたね。


 でももうやめました。自分を殺してまで笑いの仕事をするのはやめよう、と。今は怪談のほか、バリアフリーの講演とか、街頭や駅で障害者に対する理解を訴えたり、応援したりしています。


■法律をどう作るか
 2006年にできた障害者自立支援法にも反対しましたよ。ホームヘルプなど障害福祉サービスを受けるのに、利用料の1割を障害者が負担しなければならない。「えっ」と思った。


 だって、重症の人ほどお金がかかるんです。重症の人ほど働けないわけでしょう。おかしいじゃないですか。働ける人が働いて、重症の人をフォローしてあげるのが普通なのに。元気な人が考えたら「それだけ手間ひまかかるんだから、その分お金ちょうだい」ということなんだろうけど。でもそれは元気な人の考え方ですよ。


 私も今は元気ですが、8月で65歳になります。いずれ仕事もできなくなる。女房だって、いつまで面倒を見られるか分からない。先のことを考えると怖いんです。


 何も私は人様のお金で楽がしたいなんて思っちゃいませんよ。障害は国の責任じゃないし、国に面倒を見る義務もないことは分かってます。だれが悪いなんて言いません。でも、障害者なんか放っておいてもいいじゃないか、何で面倒を見る必要があるのか、日本の発展に関係もない、と思われているんじゃないか、と感じるんです。


 私は、子どもには「ごめんね」、周りの人には「お願いします」「ありがとうございます」しか言えずに生きている。次男も一生懸命、生きている。お金なんかなくったって、一度でも「お父さん」と呼んでくれたら、どんなにうれしいか。そればっかり考えて生きてるんですよ。そこを分かってくれているのか。日本が豊かな国なら、経済的にも精神的にも優しさを持てるんでしょうけど、財政も厳しい中で、どういう法律を作るか、ということなんですよね。


 民主党は2009年の総選挙で、障害者自立支援法を廃止して新法を作る、と公約に掲げていました。しかし政権を取ると、廃止を見送り、新法の検討会の提言も先送りしてしまいました。これまでの1割負担を実質的に「払える人は払う」という応能負担に変更していますが、障害者から「だまされた」という怒りの声が上がりました。今回は、法律の名前を「障害者総合支援法」に変える程度にとどまるようです。


 もちろん、経済的に困っている障害者や家族も少なくないので、負担が軽くなればありがたい。公的援助があれば、いちばんですよ。病院に通うのだってお金がかかるんですから。


 でもね、法律がどんなに変わったって、障害者がすべて救われるってことには、おそらくならない。私たちはね、たった5メートルでも手を引いてくれる人がいたら本当にうれしいんです。そんな温かみ、思いやりが感じられれば負担の割合うんぬんじゃなくて、法律や制度の受け止め方も少しは変わってくると思います。



■要らない命はない

 一般の方々にも分かってほしいですね。私が街頭や駅頭で一生懸命しゃべっても、「うるせえなぁ」という顔をして無視する人がほとんどです。誰も聞いてやしない。


 私も次男のことがあるまでは、ひとごとだと思ってた。でもみんな年をとれば、どこかしら障害が出てくると思うんですよ。足が動かないから、車いすが欲しいとかね。障害者の問題は、特別なものじゃない。いつ、だれにでも起きうる問題なんです。


 私の仕事の関係とか、いろいろあって、女房と次男とは残念ながらもう何年も別居しています。別に夫婦仲が悪いわけじゃないですよ。次男は今年、26歳になるんですが、重度の知的障害者です。こないだね、次男が生活実習所で作った簀(す)の子を女房が送ってくれました。私は最低の父親ですが、そんな小さな成長の証しが、心からうれしい。優しくしてくれとは言いません。せめて、嫌がらないでください。忘れないでください。


 私がね、今回、こんなみっともないことも、あえてお話ししたのは、みなさんに分かってほしいという一心、それだけなんです。ごめんなさいね。世の中に要らない人、要らない命なんてないんですよ。それだけは、分かってください。

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週現スペシャル 稲川淳二 独占告白「私が愛する息子に死んでほしい願った日々」(2012年08月11日号 週刊現代)

週刊現代記事


むしろ、障害には理解あるほうだと思っていたという。待望の次男が誕生。だが、その後の変わりように本人が一番驚いた。他人事ではない、どの家庭でも起こりうること。語り部の体験に耳を傾けよう。


■恐ろしい想像
 生まれたばかりの障害を持つわが子を殺めようとし、思いとどまったタレントがいる。怪談でおなじみの稲川淳二氏である。ラジオDJを皮切りに、テレビのレポーターやお笑い芸人として一世を風靡し、その後、怪談の語り手として人気を得る。一方、通産省(当時)のグッドデザイン賞の受賞経験もあるデザイナーでもある。そのマルチタレントが、なぜ、わが子を手にかけようとしたのか? 昨年末には前立腺がん(初期)がわかり、今年2月に手術したばかり。全国35ヵ所をめぐる「怪談ナイト」ツアーの真っ最中で超多忙の中、話を聞いた。


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 タレントとして一番忙しかったのは、30代から40代ですね。ラジオのレギュラーや、テレビの全国ネットの出演で、週に28本くらい出てました。休みもなく、働いてました。長男(俳優の貴洋氏)なんか、遊んでやる暇もなかった。


 '77年に結婚して同じ年に長男が、'86年に次男が生まれました。ちょうど30代の忙しい頃です。次男の出生直後に医者が「稲川さん、実はまだ赤ん坊になってない」って言うんですよ。「なんで?」って聞いたら、泣いてないと。「泣いたら赤ん坊になるんですね」って念を押したら、そのうち泣いた。


 ところが女房が「この子、少しおかしい。黒眼が上にあがっちゃって、白眼ばかりむいてる」って涙ぐんでる。それであちこち医者に診てもらったんですが、「別に問題はない」って言われたんですよ。ところが女房は「そんなはずはない。絶対これは問題がある」って言うもんですから、別の病院で診てもらったら、クルーゾン病だった。


〈クルーゾン病は、先天性の頭蓋骨の形態異常で、発話ができず、外見的には顔面の歪みや眼球突出などの特徴を持つ。鼻咽腔発育不全による呼吸障害などを伴い、水頭症を合併することもある。患者によって症状は異なり、稲川氏の次男の場合、視覚、聴覚、知能にも障害があった〉


 生後4ヵ月で手術することになったんですが、電話口でそのことを告げる女房は、泣き声でした。普段泣かない、あの気の強い人がですよ。「手術をしても、もしかすると助からないかもしれない。助かったとしても一般の人と同じ生活はできないかもしれない」っていうようなことを言ったんですよ。


 目の前がぱーっと白くなってね。あの言い方だと、死ぬか、あとは障害を持って生きるしかないじゃないですか。


 これは違う。現実じゃない。自分の子供にこんなことがあっちゃいけないと思ったんですよね。その頃、クルーゾン病は、10代半ばぐらいまでしか生きられないっていう情報しかなかった。長い付き合いはできないな、その間、大事にしてあげようかな、早くに逝くんだったら、あまり情をかけないほうが幸せなのかな、そんなことを考えました。


手術日が近づいてくると、


「手術中に死んでくれたらいいな」


 と思うようになった。雪の降る中、ロケに行ったとき、今もしあいつがこの雪の中に落っこちたら死んじゃうんだろうな、ずっと泣き声が聞こえるのかな、楽に死ねる方法ないかなと考えてしまうんですよ。


 普通、手術するっていったら助かることを願うんだけど、私は反対だった。死んでくれたほうがいいのかもしれない、とどっかで思っていたんです。


 手術する前、病室で自分の子供を見たときに、殺そうと思ったんですよ。こいつはとっても欲しくて生まれた子供だけど、こういう病気で生まれちゃったから、結構苦労するだろうなと。もしも私が先に逝って、こいつが生き残ったとき、誰が面倒を見てくれるんだろう。女房も長男も大変だろうな。みんなに邪魔者扱いされてしまうのかな。他人がこの子の面倒を見てくれるのかなと段々不安になってきて、初めからいなかったことにしたらいいと思いついた。じゃあ今、私がこいつの鼻をつまんで窒息させればいい・・・・・・。


 周りを見たら、病室には誰もいない。私ね、スーッと手を伸ばしたんですよ。鼻まであとわずか1cmのところまで手が伸びたんだけど、ブルブルブルブル震えてできないんです。そのうち、「やめておけよ」っていう声が聞こえたような気がして、ふーっと手をどかしたら、女房が部屋に入ってきたんですね。


■親になってわかったこと

 それでも手術で死ぬかもしれないと、まだいやらしいことを考えてるんです。手術は朝の8時から夜の8時までかかりました。手術を終えて、エレベーターから次男が出てきた。ベッドの周りは檻のような柵がついてて、医療器具なんかがぶらさがってる。次男は頭にぐるぐる包帯を巻かれて、体には何本も管が刺さってました。こいつが、ハァハァと息をしてるんですよ。小さな体で、一生懸命に病気と闘ってるんです。それを見て、「私はなんて奴だ」と思ってね。私はもう最低だと思ったんですよね。


 長男がいてとても幸せだったから、もう一人いたら、もっと幸せになると考えてつくった。ところがそれは失敗だったと思った。自分の都合でこいつを殺そうと思った。考えてみたら、子供に罪はないし、こいつの名前を一度も呼んでない。何度も次男の名前を叫んで言いました。


「俺はお前の父ちゃんだぞっ」


 てね。


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 怪談で鍛えた話術で、稲川氏はわが子への懺悔と思いを熱く語りつづけた。


 障害者の介助者の経験があり、障害者解放運動を取材してきた私は、稲川氏同様、自分の子供を殺めようとした親たちの話を、幾度となく聞いた。無理心中を何度も考えたという親もいた。思いとどまることができたのは、ある親は自制心であり、ある親は支援者とのつながりであった。

それにしてもなぜ、稲川氏は子供の鼻と口に手を伸ばしたのだろうか? 


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 それまで私は、障害者との出会いはなかった。自分の周りに障害者はいないんだから。やっぱり、どこかで〝自分とは別の世界の人たち〟と思ってたのかもしれないですね。それまでは障害者を差別なんかしてなかった。自分はいい人だと思っていたから。みんな、そうじゃない? 障害者に同情してたんですよ。障害者を見たときに、手を握って道路を渡らせてあげようかなって気持ちはあったし、純粋にそう思えた自分がいたんですよ。


 私、独身だった頃は、深夜のラジオ番組で、社会的弱者を助ける話を何度かしたことはありました。ところが障害を持った子供が生まれたら、どっかでその子を差別しているんです。それはなぜかっていうと、今までは自分に降りかかってなかったから、同情できたんです。自分に降りかかったら、なんで俺に?ってなったんです。それが正直なところですよ。


 次男の手術後、考えは変わりました。4ヵ月の赤ん坊があれだけの手術に耐えて頑張ってるのに、それを「お前は俺の子供じゃない」みたいに思うなんてのは、もう恥ずかしい限りです。やっぱり、自分の子供はかわいいんですよ。うん。だから鼻をつまめなかった。


 次男が二つか三つの頃かな、あるとき、色が付いた木をね、グラデーションに並べたんです。ちっちゃい赤ちゃんがね、ちゃんと順番に並べたんですよ。「あー、こいつ、絵が好きなんだなあ」って思いました。私も絵が好きでしょ。たぶん、自分に似てるんですよ。


 でも、次男が街を歩いているとき、周りは奇異な目で見ているのに気付いた。こんなみじめなことはないですよ。本当に。それは申し上げたい。それは障害者の親にならないとわからないと思う。こいつは悪くないのに、みんながジロジロ見て、驚いた顔をするじゃないですか。やっぱりきついですよ。


 いつだったか、たまたまタンスをあけたら、次男のちっちゃい頃の写真があったんです。私はそれまで上の子の写真はいくつも撮ってるのに、下の子は一枚も撮っていなかった。そう長く生きはしないだろう。そう思う自分がいたのは事実なんです。


 でも女房は、自分で写真を撮って、それをタンスの中にしまっていた。


■生きてるだけはさみし過ぎる
 かわいそうなのは、次男本人です。いま、26歳になりますが、単純に考えて結婚はムリでしょう。学生のころは修学旅行も行けなかったし、泊まりもできない。要するにいっちょ前の人間として成長していけないじゃないですか。私が今まで生きてきた中で味わってきたことを、彼は味わえない。生きてるだけでいいっていうんだったら、さみし過ぎるじゃないですか。


あまり言うと女房に怒られるけど、次男は目も耳も弱い。目と耳がやられてしまったら、闇の中ですよ。知恵だってやられていますからね。頭が回らないところへもってきて、目が見えなくて耳が聞こえなかったら、生きていく意味があるのかと考えてしまう。女房だって、いつまでも若くいられるわけじゃないし。


 できないことがいっぱいある次男は、かわいそうではあるんですが、もうそういうふうには考えないようにしています。奴に失礼だしね。


 私、たまに講演を頼まれて行ったりすることがあるんですけど、「1億円あったら何をする」っていうような話は、間違いだって言うんですよ。五体が揃っている人間が、あれが欲しい、これが欲しいなんて言うんじゃないよって。そうでしょ。手がない人は何億出そうが手がほしい。そっからスタートですもん。苦労があったり悲しみがあったりするから、幸せがわかるわけじゃないですか。


 次男が5歳のときに女房と別居しちゃってからは、彼とも接する機会はないです。長男から聞くんだけど、次男は楽に生活してるらしい。生活実習所には通ってるけど、世間(社会)には出てないから、上司にいじめられたとか、プレッシャーとかもない。周りの人が優しくて思いやりがあるから、そこにいられるわけですよね。世間を見ることはないだろうけども、それなりに幸せなら、それでいいんじゃないかな。


 もう長い間、次男には会ってません。長男が近況を教えてくれるだけなんですよ。会ったって、たぶん、向こうは私が父親だってわからないでしょう。女房のことは一緒にいるから、わかるんですよね。長く別居中とはいえ、離婚はしませんよ。子供たちがかわいそうでしょ。


 というのは、私もあと5年で70なんですよ。大事な友達やなんかが随分亡くなったりして、さみしい思いをしているけど、いつか自分もあちらに行くわけだ。


 そのときにね、子供が迷うようなことがないように、何かしたいなと思って。子供に苦労かけないで人生を終わらせる方法。それが何なのかは、わからないですけどね。


 次男がいるから、仕事も頑張れます。今は一生懸命生きていかないとっていう気があるから、時間を無駄にしたくない。一生懸命生きてる子供に悪いから。誰が生きていい、誰が死んでいい、なんてことはないんです。私のせがれも、要らない命じゃないんです。


 私が怪談ツアーを20年もできたのも、きっと子供のことがあったからですよ。仕事に逃げてるわけじゃないんですが、頑張れますよね。これからも喜んでくれる人のために、怪談をやろうと思ってます。


■障害者はかわいそう?
 私、ストリートファーニチャーって、ベンチだとか街灯だとかのデザインをやるんですけど、ある人から頼まれたんですよ。体の不自由な人やお年寄りが、誰の手も借りないで座れるベンチをつくってくれって。どんな材料、デザインにしようかなって悩んでた。そうしたら友達が「スペインの賞をとったベンチのデザインの写真があるから送ろうか」って言うんですよ。「頼むよ」って送ってくれたのを見たら、ホームセンターで売ってる普通のベンチなんですよ。なんだ、こんな材料は、どこでも売ってるじゃないのと思ったら、一言書いてあるんですよ。


「体が不自由だとか、年寄りだからという理由でここに座りなさいって書かれてあっても、誰がそんなとこに座りたいか。この国には幸いにも、年寄りや体の不自由な人に手を差し伸べる文化がある」


 って。


 日本の社会というのは、体に不自由な人が、誰の手も借りないで椅子に座れるのが便利だって思ってるけど、それって冷たいんじゃないか。何が優しさだろうって思う。いろんな人と社会の中で一緒にいるってことは、難しいですね。ほんとに難しいですよ。誰の手も借りないってことは、誰も助けませんよっていう意味じゃないですかね。


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 次男が生まれるまでの稲川氏は、それまで障害者との出会いがなかったという。あったかもしれないが、意識にとどめることはなかったのだろう。私が取材した障害者は、福祉制度がいまほどない30年以上も前、介助者を自力で集めて自立を果たした人たちだった。


 私には子供はいないが、もし障害児が生まれ、にっちもさっちもいかなくなり、わが子を手にかけてしまいそうになったら、私は間違いなく彼らに相談しただろう。知らないことや不安があれば、教えを請えばいい。必ずどこかに先達はいる。稲川氏の言うように「誰の手も借りないってことは、誰も助けませんよっていう意味」なのだ。自立とは、独り立ちすることでは必ずしもなく、いかに多くの人に頼ることができるか、ということでもある。


 私が知る自立障害者たちの多くは、けっしてかわいそうな存在ではなかった。人目を気にするどころか、自分の〝普通でない体〟をいかにアピールするかを考える目立ちたがり屋もいた。


「見たかったら、見たらええで」と誘ってもいた。


 問われているのは、これまでどういうふうに障害者を見てきたかという、私たちの障害者観である。怪談の語り部の話を聞いて、あらためてそう思った。


ノンフィクションライター:角岡伸彦