私は、人はありのままに生きれば良いと思っています。空だとか、無だとかこだわる必要は無いです。もし間違ったなら、素直に謝ってより良い行動ができるように努力するだけのことですから。お釈迦様はそれを「無」と言いいます。無かどうかは別にして、とりあえず謝る、のが私流です。人生に無は無いです。助け合って、心を通わせて、より良い世界を作る努力をします。それが人間本来の生きる意味で、無ではないです。分からないので反論はしません。でも、仏教の教えはよくわかりません。。。。そう、モヤモヤしていたら、また唐突にお釈迦様が現れました。

 

≪修行者は独善に陥りやすいものだよ≫

 

「久美子さんは、物質の世界が無であることと、人の心の在り方を同一視しているようです。良心や思いやりという、人を人足ら占める精神性は、無の対象ではないのです。無になるものは、物質とともに動く情動ですね。欲望や執着です。もっと欲しい、自分だけ楽になりたい、という」

 

「折を見て、少しずつ真実を語りたいと考えています。  現世では、ブッダの説く理法として、多くの教えが流布していますが、 ほぼすべてが間違いです。それを批判するつもりはありません。それぞれの立場で、修行者が精進して現わしたものだから。 しかし、私自身については、真偽を明らかにしなければならない。 私には責任があるのですから」 

 

★出家の理由は政治のため 

 

「私の思考の出発点は、「人間とは何か?」「世界とは何か?」を視る事でした。 視るという意味は、超能力的な霊視では無く、見通す眼力のようなもの。 私は、自分自身、人間、世界を見通しました。 その時点(出家時)で、明らかなことは、私には限界があったということです。 自分は、一族の主としては無力な人間でした。 私の一族は、当時社会的に非常に複雑な状況にあり、私が身を引くべきと決断しました」 

 

「出家についても伝説がありますが、単純に政治的な判断です。 家の後を継がなければ、出家の道に進みます。 出家し政治から離れると、世界に向き合う時間が訪れました。 しかし、それは本来果たさなければならない職責から逃げただけなのです」

 

 「日本の神道は¨真¨を重んじますが、私にはその真がありません、弱い人間だったのです。 私は、聖者と言われていますが、間違いです。 生れた時に、「唯我独尊」と話したという伝説もありますが、それも間違いです。 解脱は出来ませんでした。というより、解脱は無いのです。解脱は、人間の思い込みです。 何か霊的な特権を持つ人間が解脱するのではなく、世俗の一般人も、 人として生まれてくることそのものが、解脱しているのです。 (動物たちも人間と同じ尊い命があります。命を持つという意味で、動物も人間も同じです)」 

 

★私は超能力など無い普通の人間でした 

 

「解脱とは、あらゆる執着を消し去り、輪廻の世界から脱することですが、 それはあり得ないのです。霊界に来て分かりましたが、宇宙は一つの生命ですから、 自分だけを切離し存在することはできません。輪廻は、宇宙の一部の状況で、 私はその一部分に注視して、宇宙全体を認識しなかったのです」 

 

「そうです、宇宙の内面を、幽霊や迷信として切り捨てていました。 久美子さんは、「お釈迦様って鈍感だったのね?」と言いますが、その通りです。 私は、ありのままの世界を探求することを信条としていますが、 生きていた時それは、目前の事実しか受け入れなかったのです。 ですから、他人の心の中にある思いは、執着に類すると考えていました。 行為として表出されるものは有意味ですが、だからこそ、正しい行いをしよう、 という訳ですが、他人の心の中にあるものは表れないなら意味は無いので、 煩悩や執着と断定して、無視しました。冷たい人間であったのです」 

 

「私は、積極的に聖者になりたかったのではなく、政治から離れて、生き延びたいという 保身から、出家の道を選びました。前述しましたが、真からは離れていたのです。 スピリチュアルの世界は¨真¨を問われますが、それが分かったのは、 霊界に来てからのことです。生前は、聖者の道を選んだからには、 聖者として悟りを得ようと精進しました。それについては、伝説の語る通りです。  常に、ありのままの世界、ありのままの人間を探求しました。 目の前に展開する出来事に思いをこらし、真実を得たいと欲しました」 

 

「そんな私なのですが、人々は信じてくれました。聖者だと、救ってくれるとね」 

 

「現世で釈迦国が滅んだ時、私は全く気付かなかった。  私は、霊界の行場で池を見ながら過ごしていました。前述した涅槃の池です。  これが悟りの境地。そして完全なる無に参入する、と信じていました」

 

★仏の悟りは簡単なものだが、独善に陥りやすい

 

「現世の仏教の教えは、妙に哲学的になり難しいものになっていますが、仏陀の悟りの境地はとても簡単なものです。要点は二つあります。第一は、心の平安。そしてその心の平安の為に、第二はとして、心が乱れる原因となる物事を退けよう、という提案なのです。悟るために、厳しい修行をしたり、専門的な学問をする必要はないのです」

 

「現世では、人は独りでは生きてはいけない、と言います。それは当然のことで、現代の人間は、高度に組織化された社会に依存して生きているから、衣食住は、他人の手を経るしかないし、自分の労働は社会に還元されて、間接的に誰かの役に立っているはず。それは理屈では分かっているだろうけれど、たまに頑固者が居て、「私は誰の世話にもならない」と我を張るものが居る」

 

「自分は誰にも迷惑を掛けていない、と信じているものは、自身でそう思い込んでいるだけだよね。傍目から見るとよくわかる。同様の事は、仏教の修行者にも言える。修行者は、私も含めて、小さな頭の中で独善的に思い込んで、悟ったつもりになっているんだよ」

 

「涅槃は無為の世界、涅槃には現世的な取り組みは無意味です。無になるためになにかするものではい。無になるために食事制限する必要は無い。無になるために禁欲する必要もないのです。食事をすることで、元気に仕事をして、社会貢献する。欲があふれて男女の行為をして、夫婦仲が良くなり、家庭が纏まり、子供が健やかに育つならそれでよいのです」

 

「現世には、自己グレクトという言葉があるが、修行者も用心して取り組まないと、そのような精神状態になる。捨てて捨てて捨てきり、後は死ぬだけ、となった時にそういう自分に満足してしまうが。。。」

 

「世俗から隔離することが涅槃の目的ではありません。悟りは世俗から隔離されて自覚するものでも無い。ありのままに世界を知り、ありのままの自分を見つめるための場が、この現世で在り、人間社会という世俗です。世俗を否定せず、世界と社会に涅槃を見出すのです。それが悟りです。そして、私(仏陀)の真の教えであります」

 

 

≪涅槃の池、新たなる悟りの境地へ≫

 

★池の底を見て涅槃を知る

 

「あるとき、池の側で瞑想をしていました。その池はとても綺麗で穏やかな表情をしています。私は、しばらく池を堪能しました。水は透明で、底が見え、石が転がっている様子や、水草がゆらゆら揺れておりました。その揺れが突然止まり、まるで時間が消えたかのように、池は透明で綺麗な姿のままたたずんでいました。その時。「これが涅槃の境地だ!」と観じました。その直感は急激に確信になりました」

 

 

「私は、時間を忘れ、池が創る涅槃の世界に浸っておりました。すると、突然、水滴が一粒、水面に落ちました。雨が落ちたようです」

 

 

「水滴は一粒落ちると、同心円状に波打ち広がり、水面を乱しました。そうすると、水の中の静寂の世界が乱されて、水草も、石ころも見えなくなりました。その後、次第に雨が多くなり、気が付くと、池はかき乱されて、涅槃は消えていました」

 

「私は、そこで、何故涅槃が消えてしまったのか考えました。単純に、雨が降ってきたから、と言えばそれまでですが、そうではなく、もっと深い意味があるのです。涅槃の世界がそこにあるのに、雨と言う自然の力が、それを無意味にするのである、と解釈しました」

 

「つまり、自然の力は雨という形で、涅槃を阻害するものである、と。静寂な池の世界は涅槃の境地でしたが、自然の力は雨を降らせ、涅槃を乱します。雨が止むと、池にはまた涅槃が訪れます。それが、私が観じた輪廻です。生き物の生まれ変わりではありません。涅槃の境地を中心にして、それを繰り返し乱す自然の力を、輪廻と見ました」

 

「そしてその後、私は¨縁¨を発見しました。それは、霊的存在が気付かせてくれたものですが、霊感の無い自分には、それを悟りと解釈しました。今思うと愚かな思い上がりですね」

 

「次の日、涅槃の池を観じておりますと、また雨粒が、ポツリと落ちてきました。雨粒は、今度は、ハスの葉に落ちました。その雨粒は、水面には落ちずに、葉の上に留まり、涅槃を乱す波紋は起きません。それから私は、池の中に入りました。入ると、水面は大きな波が起きさらに、池の底には砂が舞い上がり、対流になり、水の中は何も見えなくなりました」

 

★縁の発見

 

「しばらくと、水中の濁りは無くなり、元の美しい静寂が戻りました。私は、心を統一し、じっと立位のまま、輪廻(自然の妨害)が巡り去るのを待ちました」

 

「どのくらい時が過ぎたのか、雨がぽつりぽつりと落ちてきます。それを私は、手のひらで受けます。いくつかの雨粒は私の掌に落ちますが、その下の水面には、波紋は起きず静寂を保ちます」

 

「もっとたくさんの雨粒が落ちてきました。池の水面には無数の波が立ち、涅槃は破られました。しかし、私の掌の下の水面と、私の身体の周囲の限られた範囲の水面は、波は立たず静寂のままです。そう、これが¨縁¨です。私が理解する縁というものです」

 

「縁は、涅槃を助け、維持するものです。現世の仏教では、因縁生起の教えを、物質現象を中心に考えますが、真の因縁生起とは、物事の始まりは、涅槃の状態であり、それを自然の動きが、天体の運動のように、周期的に乱すことが輪廻です。その輪廻の状態に対して、涅槃を保つための働きが¨縁¨なのです」

 

つづく、

随時加筆します、

 

 

 

 

 


 

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