今日のおすすめ

貨幣経済が、被差別民を生んだ。「遊女」も「非人」も神仏直属だった時代

中世の非人と遊女
(著:網野 善彦)
2017.11.04
  • facebook
  • X(旧Twitter)
  • 自分メモ
自分メモ
気になった本やコミックの情報を自分に送れます

貨幣経済とはコミュニケーション不能(めんどくさいことはしたくないという意識)が生み出したものであり、貧困や戦争の要因となるものである──。

この思想に接したときはたいそう驚いた。「お金がない世界」なんて想像したこともなかったからだ。

残念ながら今、自分にはこの思想の正しさを証明する術はない。実現の方法もまるでわからない。

しかし、次の事実はたしかにこの思想の可能性を述べていると言えるだろう。

「縄文時代には、戦争はなかった」

本書は、中世──すくなくとも南北朝期までは貨幣経済はなかった、と述べている。和同開珎はすでにあったけれども、それは貨幣経済の礎とはなっていなかった。本書のタイトルにある非人や遊女、さらには河原者や芸能・職能の民(平民以外)が差別の対象になっていったのは、貨幣経済の一般化と期を一にしている。

貨幣がなくても、商品の交換は必要である。物々交換がおこなわれることになるが、これは誰もがしていいものではなかった。モノに交換価値を宿すことができるのは、神仏のみとされていたのだ。したがって、モノの交換がさかんにおこなわれる地=市場は、神仏の「場」であった。それを取り仕切ることができるのは、神仏直属の民のみである。

彼らはへりくだって自らを神奴、仏奴と呼ぶこともあった。神仏の奴隷である。非人とは人に非ざる者という意味であり、神仏に仕えているということを意味していた。当然、大いに尊敬も得ていた。また、非人には身体障害者や捨て子、身よりのない者も多く混じっていたといわれる。

やがて、貨幣が流通するようになり、市場は神仏の「場」ではなくなっていく。「神仏直属の者」の存在価値も、急速に薄れていった。「神仏直属の者」はやがて、「人に非ざる身分の者」に変わっていった。

「遊女」も「あそびめ」「うかれめ」と呼ばれ、巫子とほぼ同じ意味で使われていた。やはり、「神仏直属の者」だったのである。

お金のない世の中は、たぶん相応に不便だろう。貨幣経済が一般化したことによって、その不便さは解消された。しかし、それで失われたものが必ずある。

自動車が一般化したことによって、われわれは長い距離を、短時間で移動することが可能になった。しかし、昔の人が吸ったことがないような排気ガスに汚れた空気を呼吸することになった。

テクノロジーとはそういうものだ。そこには、3つの特徴がある。

ひとつは、人々は利便性を得るかわりにかならず何かを失っているということ。得るだけのものなんてない。かならず何かを差し出している。

もうひとつは、一度それを得たら、もう後戻りはできないということ。自動車のない生活、電話のない生活、貨幣のない生活。そういう生活はたしかにあったにちがいないが、もはや想像することしかできない。(「俺は電話持ってないよ」という人もあるかもしれないが、それが浸透している社会に生きていることから逃れることはできない)。

それともうひとつ。それが「ない」ことで不便だと感じている人などほとんどいなかったということ。

エジプトの神様が、文字が発明されたことをたいへんに嘆いていた。人間は文字を得たおかげで、モノ覚えが悪くなってバカになるだろう。人間は文字の利便性とひきかえに、記憶力を失ったのだ。誰もそうなることを望んでいないのに、そうなってしまう。

貨幣経済の浸透が、大きな変革を呼び起こしたことは間違いない。われわれは貨幣の利便性とひきかえに、被差別民を生み出し、差別ある社会を生み出したのである。本書は、それをあざやかに例証している。

今、われわれの中に、神仏の奴隷になっている人はほとんどいない。だが、どいつもこいつもお金の奴隷になっている。俺もあんたも奴隷さ。エレファントカシマシが歌ってたっけ、この世は奴隷天国だって。

自分が奴隷だってことを誰もが意識すれば、世の中は大きく変わるだろう。

(歴史学は断じて、この稿のように乱暴なものではない。本書も調査をもとに慎重に論を進めているし、鎌倉末期/室町初期の大変動が、貨幣経済の浸透だけを理由とするとも述べていない。これは恣意的な解釈である)

  • 電子あり
『中世の非人と遊女』書影
著:網野 善彦

非人は清めを、遊女は「好色」を芸能に──網野史学が説く職能民の多様な姿と生命力

非人や芸能民、商工民など多くの職能民が神人(じにん)、寄人(よりうど)等の称号を与えられ、天皇や神仏の直属民として特権を保証された中世。彼らの多くは関所料を免除されて遍歴し、生業を営んだ。各地を遊行し活動した遊女、白拍子の生命力あふれる実態も明らかにし、南北朝の動乱を境に非人や遊女がなぜ賤視されるに至ったかを解明する。網野史学「職人論」の代表作。

現代のわれわれが、職人の見事な腕前に「神技」を感ずるのと同様、このころの人々はそれ以上に、職能民の駆使する技術、その演ずる芸能、さらには呪術に、人ならぬものの力を見出し、職能民自身、自らの「芸能」の背後に神仏の力を感じとっていたに相違ない。それはまさしく、「聖」と「俗」との境界に働く力であり、自然の底知れぬ力を人間の社会に導き入れる懸け橋であった。──<本書「序章」より>

レビュアー

草野真一 イメージ
草野真一

早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。2013年より身体障害者になった。

ブックレビューまとめページ:https://goo.gl/Cfwh3c

  • facebook
  • X(旧Twitter)
  • 自分メモ
自分メモ
気になった本やコミックの情報を自分に送れます