「いつつぶれても、おかしくないと思ってました。苦しくて苦しくて、仕方がありませんでした」

 脱サラした田中進氏が、農業法人のサラダボウル(山梨県中央市)を創業したころの苦労をふり返ったこの言葉を、前回の末尾で紹介した(4月21日「年収7000万円サラリーマンが農業に転じたわけ」)。

農業のイメージの向上を目指す田中進氏(山梨県北杜市)
農業のイメージの向上を目指す田中進氏(山梨県北杜市)

 前回も触れたが、田中氏は会社勤めに行きづまって会社を辞めたわけではない。農業を始める直前の年収は7000万円と、「超」のつくエリートサラリーマンだった。脱サラして農業を選んだ背景には、実家が農家ゆえの農業への深い思いがある。だが、家業を継いだわけではなく、仲間と荒れ地を開墾し、ゼロから農業に挑戦した。

 現状から説明すると、国内で運営している農業会社は、サラダボウルと兵庫ネクストファーム(兵庫県加西市)、アグリビジョン(山梨県北杜市)の3つ。サラダボウルは露地を中心とした野菜の多品種栽培で、あとの2つは大型施設を使ったトマト栽培だ。売り上げはすでに10億円を超えているが、掲げる目標はもっとずっと大きい。

若者が夢を持てる待遇を

 「たくさんの人に農業にチャレンジしてもらいたい」。田中氏は取材で何度もこう語った。例えば、田中氏が公表を迷った数値がある。「40万円」。兵庫ネクストファームの、20代の栽培責任者の月給だ。「特定されるので、本人は記事になることに尻込みしてますが」と前置きしたあとで、「農業界のために出しましょう」と語った。

 売り上げだけいくら大きくても、そこで働く若者が夢を持てなければ、企業として成長するのは難しい。そのために、まず問われるのは待遇だ。兵庫ネクストファームは現在、15人の社員が働いており、ボーナスは夏と冬で合計4カ月分支給している。アグリビジョンも10人の社員に夏冬2回ボーナスを出している。どちらも週休2日制だ。

 創業会社のサラダボウルは天候に左右される度合いが大きい露地栽培のため、週休2日は難しい。そこで週休1日を基本に1カ月に1回連休を設け、さらにオフシーズンにまとめて休みをとれるように努めている。多くの人に農業に挑戦してもらうには、「まともに休みがとれない」というイメージを変える必要があると考えているのだ。

 以上、サラダボウルグループの現状を職員の待遇を軸に概観した。だが、モラルの高い製造業の工場のような整然としたいまの運営にたどりつくまでには、さまざまな苦労があった。ここで時計の針を、田中氏がサラダボウルを立ち上げた2004年のころに戻そう。

「苦しいのは当たり前」という勘違い

 「『農業をやりたい』って入ってきてくれた人たちの情熱と夢を食いつぶしてました」。当時のことを語るとき、田中氏の表情に悔恨の色がよぎる。

 「畑をつくっているつもりで、うまくいかず、雑草ばかり出てくる。そんな畑ばっかりで、手が足りなくて、お金をかけて耕して肥料を入れて、お金をかけて管理をして、お金をかけて収穫したら、そのほとんどが廃棄するしかないものばっかり」。創業のころの現場の混乱ぶりを、こんな言葉で表現する。

 「昨日と今日、今日と明日の境目がわからない。11時に寝て、翌朝5時から仕事。そんな会社が長続きするわけがない」。金融の仕事でさまざまな会社を見てきた田中氏だからこそ、自分の会社がいかに厳しい状況にあるかがリアルにわかったのだろう。「先が見えない。やってもやっても、もうからない」。

 最大の理由は、人が育っていなかったことだ。前回書いたように、一生懸命農業をやる姿を見て、農地は集まってきた。売り先も増えた。だが、「農業をやりたい人ができる人に変わる前に、どんどん拡大してしまった」のだ。このころ、田中氏は「ものすごく大きな勘違い」をしていた。「農業だから苦しいのは当たり前。それができないなら、やめればいい」と思っていたのだ。

 これこそ、サラダボウルグループがいま全力で改めようとしている農業界の古い発想だ。大勢の若者が研修に来て、才覚のある人が農場に残り、経営を支えてくれた。それで、「人材育成をしている」と思っていた。だが当時、ある教育関係者に指摘された。「あなたのやってることは、人材育成でも教育でも一切ない」。農業界全体にいまも残る課題だろう。「脱落者を出しながら、できる人だけを選び出していた」。

 田中氏が率直に話してくれたので、反省の弁をもう少し続けたい。「いまのコアメンバー以外、ほとんど辞めてしまった」。例えば、あるスタッフが独立し、就農した。当時は「独立させた」と思っていた。だが、いま考えると実情は違う。「『どう考えても、ここにいても未来はない。だから自分でやる』。そう思って、辞めていったんです」。

 ここで、経営の模索が始まった。毎日、午後1時半から30分間、「5S活動」に取り組むことにしたのだ。日本の製造業の現場でよくある「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「しつけ」の5つの活動だ。「よくある」と書いたが、効果が出るかどうかは、なぜ5S活動が必要なのかをスタッフが理解しているかどうかにかかっている。だから、田中氏は「一番大事なのはしつけ」と話す。

勘と経験に頼る農業から抜け出す

 そもそも作業が追いついていないのに、5Sのために時間をさくのは簡単ではなかった。だが、「このままじゃだめだ。優先順位を変え、時間をつくり出すしかない」と思った田中氏は「一等地の時間を使う」と決め、収穫や出荷などの作業より優先させた。次の言葉が当時の気づきを示しているだろう。

 「マニュアルで農業なんかできるわけねーじゃねえかって思ってました。でも、違うということがわかったんです。マニュアルはすべての人の最低レベルをある一定に保ち、よりよいやり方を見つけ出すためのツールなんです」

 これは農業界にいまも残る鋭い対立点だろう。自分の作物にこだわりのある農家ほど「勘と経験が大切だ」と強調する。先進農家といわれる人の多くは「勘と経験に頼る農業からの脱皮が大切」と語る。だが後者でさえ、その方法を確立できた人はそう多くはない。

 では、田中氏はどこまで作業の標準化を実現し、創業の混乱期に課題となった人材育成に道筋をつけたのか。「まだできていませんと言うしかありません」と話しつつ、克服に向けて努力してきた課題について語ってくれた。

 「現場でペンチを使おうとして、『ない』ってことがよくある。本部のAに電話して『ペンチないけど、使ってる?』。電話を受けたAは『面倒くさい』と思いつつ、『使ってません』と言って電話を切る。そう言われた現場は『面倒くさい』と思いながら、もう一度べつの社員に電話して『ペンチ知らない?』。返事は『使ってません。Aさんに聞いてください』。こうして振り出しに戻る」

 「みんな一生懸命仕事をしてるふりをしながら、お互いに邪魔をして、迷惑をかけてる。それで夕方になったら、『何で今日の予定が終わってないんだ』って話になる。みんな心のなかで、『無駄な電話があんなにかかってきたら、仕事にならないよ』って思ってる」

トマトの栽培施設の機器。配置の仕方などに工夫が凝らされている(山梨県北杜市)
トマトの栽培施設の機器。配置の仕方などに工夫が凝らされている(山梨県北杜市)

 ここで、田中氏は現場の仕事を改善した一例を説明してくれた。畑で畝を立てたり、溝を掘ったりするために使う管理機という機械がある。以前は、軽トラに載せて畑に向かう際、急勾配の細い足場を立て、管理機のエンジンをかけて載せていた。難しくて危険な作業だ。「意味のない単価の安い仕事を、ベテランの単価の高い社員がやっていた」。

農業が目指すべき究極の姿

 解決方法はごくシンプル。軽トラの荷台と同じ高さの台をつくり、管理機をそこに収納するようにしたのだ。そうすることでエンジンをかけず、横付けにした軽トラに手押しで載せることができるようになった。だれでも安全に簡単にできて、事故が起きにくい。だから、修理費も発生しにくい。

 農業の現場では、往々にして逆のことが起きている。「やっぱりおれがやらないとダメか」。年配の社員がうれしそうに言いながら、自分に仕事を集中させる。手持ち無沙汰のほかのスタッフは本来やらなくてもいい仕事をつくり出す。田中氏は「コストでしかない。『農業は忙しくて、大変だ』って言うが、あたかも勤勉に働いているように見えてるだけではないか」と指摘する。

 管理機の例は単純すぎるようにみえるかもしれない。だが、大型の栽培施設の兵庫ネクストファームとアグリビジョンには、合計で200人を超すパートが働いている。仕事の仕組みをひとつひとつ緻密に組み立てなければ、小さな無駄が積み重なって、膨大なコストアップになる。それをルーズにやれば、既存の農業の限界を突破できない。

 ここまでみてくると、田中氏がたどりついた農業界の古い格言の意味が鮮明に浮かびあがる。

 「上農は草を見ずして草を取り、中農は草を見て草を取り、下農は草を見ても草を取らず」

 中国の明代の農業書に端を発するこの格言には、日本でも中国でもさまざまな解釈がある。田中氏は「これって農業が目指すべき究極の姿だと思う」と話すが、いうまでもなく「雑草の繁茂を防ぐためのコツ」だけをこの格言から学び取ったわけではない。

環境を制御した施設で、職員の待遇の改善を目指す(山梨県北杜市)
環境を制御した施設で、職員の待遇の改善を目指す(山梨県北杜市)

 「篤農家は草が生えてくる前に、草を生えさせないような仕事の体制をつくる。一番もうかる畑はまるで難しそうに見えず、『だれがやってもこんな仕事簡単じゃん』っていう状態を保っているんです」。さまざまなトラブルを兆候の段階で未然に防ぐ。それこそが農業が追求すべきノウハウなのだ。「問題が発生してから、スーパースターのように『解決したぜ』って言うことがない現場にすることが大切なんです」。

リーダーが口出ししなくても

 話題は農業からそれるが、「上農は…」の格言について考えていたとき、中国の古典『老子』のなかにある有名な一節を思い出した。

 「最高の支配者は、人民はその存在を知っているだけである。その次の支配者は、人民は親しんで誉めたたえる。その次の支配者は、人民は畏れる。その次の支配者は、人民は馬鹿にする」(蜂屋邦夫訳、岩波文庫)

 リーダーが部下と慣れ親しんだり、逆に大声でしかりつけたりしてようやく回っているような組織が、優れた組織ではない。本当にうまくいっている組織は、リーダーが一々口出ししなくても、うまく回る体制になっている組織を指すのだろう。先の格言が「草を見て草を取る」のを「中農」に位置づけているのと共通したところがあるように思う。

 ところで、本当は今回はベトナム進出の話や、トマトの栽培についての田中氏の考え方までお伝えする予定だった。だが、創業期の苦悩や、5S活動に込めた意味などを考えていると、中身をはしょって話を先へ進めることができなかった。田中氏が気づいた数々の問題は、必ずしも農業界だけに当てはまることだとは思えなくなってきたからだ。

 本稿で「農業界の古い発想」といった表現を何回か使った。それを突破しようとする田中氏の話を聞いていたとき、最初のうちは「ベンチャーだからこそ、企業文化を創りあげる苦労があるのだろう」と思っていた。だが、インタビューを終えるころには「そもそも、自分はそんなに先を見通しながら、メリハリの効いた仕事をしているだろうか」と感じていた。戒めなければならないのは自分も同じだと思いつつ、次回へと話を進めたい。

新たな農の生きる道とは
コメをやめる勇気

兼業農家の急減、止まらない高齢化――。再生のために減反廃止、農協改革などの農政転換が図られているが、コメを前提としていては問題解決は不可能だ。新たな農業の生きる道を、日経ビジネスオンライン『ニッポン農業生き残りのヒント』著者が正面から問う。

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