幻の真田丸跡 探してみた(とことんサーチ)
難攻不落 坂・段差に面影 大坂城死守 知略に思いはせ
1614年の大坂冬の陣で豊臣方についた真田信繁(幸村)が大坂城の南端に築いた出城、真田丸。今年のNHK大河ドラマで一躍有名になったが、冬の陣後、真田丸は徳川方によって徹底的に破壊され、現地に跡は全く残っていないという。だが丹念に探せばわずかな痕跡くらいは見つかるのでは。そう考えて現地を歩いてみた。
真田丸が位置した場所は諸説あるが、大阪市天王寺区の明星中学・高校を中心とする一帯が定説になってきた。まず同校の山崎貢教頭を訪ねる。ロビーには今年、生徒たちが制作した真田丸の2メートル四方ほどもあるジオラマが飾られている。「真田丸は校内でも大きな話題です。残念ながら校内には何の痕跡も残っていませんが」
やはり何もないのか。途方に暮れていると心強い味方を見つけた。国土地理院の技官、坂井尚登さんだ。空中写真の判読や地形分類図の作製などを専門とする坂井さんは本業の傍ら、戦前に旧陸軍が制作した地図と終戦後に米軍が空撮した写真を分析。現在は残っていない真田丸の堀や土塁などの跡を丹念に検出した。
これに江戸期に描かれた真田丸跡の詳細な絵図を照らし合わせ、真田丸の位置を特定。昨年、日本城郭史学会に発表して大きな注目を集めた。「現地を丁寧に歩けば、真田丸が存在したことを確実に理解できるはずです」と坂井さんは言い切る。
坂井さんによると、真田丸の大きさは東西280メートル、南北270メートルほど。正方形の上部を斜めに切り取ったような五角形に近い形だったという。坂井さんの図面と現在の周辺地図とを重ね合わせ再度、現地へ赴く。その前に「土地の高低差は今も昔もあまり変わらないものです。坂道や段差に注意してください」と坂井さんが助言してくれた。
長堀通の空堀交差点を南へ。明星中高の西側の通りを歩く(写真a)。かなりきつい坂道だ。標高差は坂の上下で9メートルほど。最も標高が高いのは餌差町交差点(写真b)。付近は真田丸で最も標高が高かった地点と思われ、四方が見渡せる。真田丸で戦の指揮を執るならここが最適だったはず。信繁もこの地に立っていたのだろうか。
次に真田丸の南端線だったとみられる道を歩く(写真c)。冬の陣では真田丸に押し寄せた加賀藩の前田利常や、近江彦根藩の井伊直孝らの軍勢が真田の鉄砲隊から激しい銃撃を浴び、1万人以上の死傷者を出したともいわれる。最激戦地はこの辺りだったのかもしれない。
北に曲がり、細い通路へ。真田丸の東端線に当たるのだろう。通路の左右で段差がある(写真d)。かつてここに堀や土塁が築かれたのか。道沿いには3つの寺が現存。江戸期の真田丸跡の絵図にも3つの寺が描かれていた。そのうちの1つ、心眼寺を訪れると、住職の橋本博さんが迎えてくれた。心眼寺は1622年、真田信繁、幸昌(大助)親子の菩提を弔うため建立された由緒ある寺院。「50年ほど前は寺の北側が崖状の雑木林になっていてよく遊んだものです」。橋本さんの言葉に思わずハッとした。
心眼寺は真田丸跡の北東端に位置していたとみられる。今は舗装され、墓地になっているが、寺の北側は以前は崖だったことが分かる(写真e)。住職が幼少時に遊んだのはきっと真田丸の堀か土塁の跡だったのだろう。
現地を歩き実感したのは、真田丸が自然の高台を存分に利用した要塞だったということ。住職はこうも教えてくれた。「今はビルに隠れていますが、昔は崖の上から北を眺めれば、大阪城の天守が見えました」
もちろん住職が見たのは昭和に入ってから鉄筋コンクリートで再建された天守だ。しかし、真田丸に籠もった真田軍も秀吉が築いた天守を背に、南から殺到する軍勢を迎え撃ったのだろう。数では圧倒していた徳川方の猛攻撃から大坂城を守り抜いた真田丸。400年の時を超え、日本一の兵(つわもの)と称された信繁の武勇と知略に触れた気がした。
(大阪・文化担当 田村広済)