会員限定記事会員限定記事

城下町の伝統と「若いセンス」が共存~長崎シュガーロードを行く~「街歩き」の巻

領主領民で造った「眼鏡橋」

 「シュガーロード」周辺の長崎県諫早(いさはや)市、大村市、東彼杵町(ひがしそのぎちょう)、波佐見町(はさみちょう)を回った今回の旅(前編「『食』の巻」はこちら)。2市2町は江戸時代、諫早氏(龍造寺氏)が佐賀藩から統治を任された同藩諫早領と、大村氏が治めた大村藩の領内に含まれ、城下町としての伝統がある。一方で、U、Iターンの若者らにより、芸術的でセンスの良い町が形づくられつつあり、新旧の相乗効果がもたらす独特の雰囲気を持つ。今回は、この地域のこうした魅力をお伝えしたい。(編集局編集委員 石井靖子)

  1958(昭和33)年、石橋として初めて国の重要文化財に指定された諫早市の眼鏡橋は、今も昔も諫早のシンボル。江戸時代の1839(天保10)年、領主領民一体となった「オール諫早」で完成させたという誇りがあるからだ。

 諫早市中心部を流れる本明(ほんみょう)川は、源流から河口までの距離が短く、洪水などの水害が起こりやすい。架けた橋はすぐに流されてしまい、人々は幅約40メートルもの川を飛び石で渡る不便な生活を強いられていた。そこで、領主の諫早茂洪(しげひろ)が、「永久不壊」の願いを込めて造らせたのが眼鏡橋だ。

 橋脚が多いと洪水に弱いため、構造を脚が一つで済む二連アーチ型に決め、こうした橋が多い長崎まで家臣を視察に行かせた。しかし、建設には多額の費用がかかり、予算が足りない。そこへ、領民たちが無償で工事を買って出た。また、地元の僧侶たちも遠国まで托鉢(たくはつ)に出掛け、資金を集めた。こうしてできたのが、水面にアーチ部分が映ると眼鏡のように見える美しい橋だ。

 しかし、時が移り、500人以上の死者・不明者を出した1957(昭和32)年の諫早大水害では、「壊れない橋」だったことで多くの流木が引っ掛かって川の流れをせき止め、逆に被害を拡大させたともいわれる。眼鏡橋を「壊してしまえ」という意見も出たが、惜しむ声もあり、国の重文指定を機に、諫早氏の居城だった高城城跡にある諫早公園に移設された。同公園周辺は現在、「日本の歴史公園100選」の一つになっており、気軽に回れる散策コースだ。

新着

会員限定

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ