好評ゆえのブン屋シリーズ第3弾「ブン屋の世迷い言」と言いたいが、反響のほどは知らないし知る術(すべ)がない。土台、知りたいとは思っていない。 有体(ありてい)に言えば、長くなって分家を建て増しただけだ。

八ケ岳に隠棲の世捨て人としては、他人をあげつらわないことをモットーにしてきた。しかし近ごろその「他人」のモラル、教養、品性の劣化は目を覆うば かりである。「世迷い言」の一つも言いたくなるゆえんだ。

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落ちてよかった、人もいる                   真夏の夜の夢 長野県知事選2006年

春日一幸と田中角栄の「七人の妾」                    よくある話の昔話

その昔、上州戦争というのがあった                  高校野球と駅伝の危機

感嘆 光市母子殺害事件の本村洋さん                    凛とした日本人

    本村さんの手記「遺族の思い」
    広島高裁判決を聞いたあとで雑誌に発表した手記(一部)


余は如何にして新聞記者となりしか                      青島の一夜
  年に2往復、4年間で10数回乗った青函連絡船。石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」の動画はここにあります。

稀代のワルか、冤罪のヒーローか               「ロス疑惑」三浦和義の自殺 

落ちてよかった、人もいる

「ヤッシーにNO!」
2006年8月7日の朝刊見出しである。続いての記事には、

田中康夫
県庁で退任挨拶するヤッシー
「任期満了に伴う長野県知事選挙は6日投開票され、無所属新人で元防災担当相の村井仁氏(69)が現職の田中康夫氏(50)を破り初当選した。脱ダム宣言やガラス張りの知事室などが知られる田中氏は“鶴の一声”的な手法を続け県議会や市町村と対立を深め、県民からも批判が高まっていた。ユニークな田中県政は2期6年で幕を閉じる」

◇ ◇ ◇

パフォーマンスばかりで県政はなにもかも塩漬け状態だった。財政の健全度を示す公債費比率が20.1%と、全国で最悪、「破産」した夕張市と 同じく財政再建団体へ転落寸前という行政手腕を問題視するべきところだろうが、私の場合、それ以前に、生理的に嫌いだった。ついでに言うと田中真紀子も同じ理由で虫唾(虫酸とも)が走るのだが、私の場合しかるべき理由がある。

新聞記者だから私は誰とでも会う。好き嫌いがないわけではないが、すくなくとも口にはしないようにしてきた。なのに「生理的に嫌い」と公言するからには理由が必要だろう。

初めて会ったのは「なんとなくクリスタル」で芥川賞を受賞した時である。すぐ近くにいたが、誕生した青年作家に特段の違和感はなかった。タイトルはなんとなく語呂がいいがもうひとつ分からないなと思った程度だ。しばらくして、今ではもうなくなったが銀座東急ホテル(現在は時事通信本社)のビュッフェとバーが一緒になったようなところで若い女性と一緒の姿を見かけた。夜中というよりもう明け方が近い時間だった。お前も何でそんな時間にそこにいたのだといわれそうだから言っとくが、地下のバーには自分のボトルが置いてあった。朝刊最終版のゲラが上がってくるのが午前2時半ごろなので、それから飲みに出るとそういう時間になる。

先客の若い作家はしきりに口説いていた。相手の顔を両手で挟んで引き寄せる、さする、肩を撫でる。熱心な動作ではあるが別に非難される筋 合いのものではない。プライベートなのだから勝手なのだが、こちらはしらけた気持ちだった。電車内で化粧女を見た時虫唾が走るがあれと同じようなものだ。

その後、作家は長野県知事選に出た。その時に新聞社での同僚が対抗馬として出馬宣言をした。花岡信昭氏という。編集局で副編集長として机を並べていた男で、現在も政治関係の企画で時折会う間柄だが、彼にそんな野心があるとは、新聞を見るまで知らなかった。記者会見を開き、堂々所信を述べていた。

長野県は恐るべき多選知事の連続で、戦後数十年になるが、県政史をみても2、3人の知事の名前しかない。我が山小舎の周りにも県が造成した土地の開拓記念碑や、道路改修記念碑がいくつかある。それぞれ建立年度は違うのだが、揮毫はみな同じ知事の名前だ。長野とは関係ない都民の私だが「彼に任したほうがいい」と思った。だが、あれよあれよという間に出馬を取りやめてしまった。

ややあって食事をともにした時に聞いてみた。出馬したのは、候補者は二人とも同じ長野県出身者だが、彼だけは知事にしてはいけない、の一心から新聞社に辞表を出したという。やめた理由は、自分が立候補したあと他にも出馬する人が出た。考えがまあ近かったので、票が分散するのはまずいと考え、もう一人の女性候補へ一本化をはかり自分は身を引いた。もうひとつの理由は、こちらの方が大きいのだが、母親の病気で突如世話をする立場になった。離婚していたので介護を任せる人もなく、出馬を取り下げたのだというようなことだった。

田中知事が実現したあと、やがて長野県庁から知事の奇矯な行動が伝わってきた。県庁舎近くのマンションにいるのだが、朝に秘書課が迎えに いくとミルク飲み人形にミルクを飲ませながら出てくるというものだった。生理的嫌悪感はこれでピークに達した。ほとんどの県議と市町村長を敵に回しての独特の政策とパフォーマンス知事の2期6年に対する県民の評価は厳しかった。

「信州」への県名変更提案、自ら農民の格好をして農村バスツアーを仕立てるかと思うと、しょっちゅう地元を留守にしてテレビやラジオ番組に出演、雑誌連載も山ほど。2005年8月には郵政反対で小泉首相に追われた連中の寄り合い、新党日本の代表に就き、知事との“二足のわらじ”もはいた。

県庁でやったことといえば、カタカナ部署づくり。県庁の課をチーム、係をユニットと呼称を変更。課長はチームリーダー、係長はユニットリーダーになった。 県庁入り口に立つ案内役のコンシェルジュや、企画局の庶務や人権問題を担当する「ユマニテ・人間尊重チーム」、緊急課題に取り組む「チームER」、問い合わせに対応するフリーダイヤル「信州ナイスコール」だという。これで何か変わるというのだろうか。

共同通信の出口調査では、前回選挙で田中氏に投票した人の約4割が村井氏に投票したという。頼みの綱の無党派の風は、すでにやんでいた 。私は「鳴りやまぬ『目覚まし時計』をもう止めましょう」と題した意見広告(6月15日付の信濃毎日新聞朝刊)が大きく働いたと思う。6年前、田中氏初当選を支えた元八十二銀行頭取の茅野実氏(73)らが出した。支持者がそっぽを向いて意見広告を出すほどだから、よほど愛想が尽きたのだろう。その茅野氏「県民が県政をきちんと見て、自分の力で独裁の呪縛(じゅばく)を解き放った。私も県民の1人として誇らしい」と話した。ここまで反旗をひるがえすのもめずらしい。

くだんの元同僚は≪“動物園県政”から脱却≫(サンケイスポーツ06.8.9)でこう書いた。

長野県庁はこの6年間、動物園であり幼稚園だった。ヤッシーこと田中康夫氏が村井仁氏に敗北したことで、ようやく大人の良識が通用する場 となる。1階のガラス張り知事室。上野動物園のパンダ舎そのものであった。児戯に等しいさまざまなことが、この異端の知事によって行われてきた。

「県庁コンシェルジュ」。部課長級の職員が受付窓口に立って来訪者を案内した。記者クラブを廃止し、だれでも記者会見に出られる表現センターをつくった。かと思うと、自身の住民票を農村部に移動させたり、東京などのテレビに出演したさいの旅費をテレビ局と県庁から二重取りしたり…。後援者の下水道業者への「便宜」にからんで、県議会に百条委員会が設置され、偽証で告発されてもいる。

「脱ダム」「木製ガードレール」「車座集会」…。パフォーマンス優先の独断専横がまかり通った。県庁職員は恣意的な人事異動にきりきり舞いさせられ、士気は著しく低下した。「県の借金を減らした」と豪語するものの、総務省が発表した「実質公債費比率」は全国ワーストワンである。これでどこが「改革派」なのか。

それでも今回の選挙で53万票を得た。田中マジックによるマインドコントロールはずいぶん解けてはきたのだが、なおこれだけの支持があるというのは驚く。それだけ「田中以前」の県政が利益誘導型土建屋政治に染まっていて、県民の鬱屈した思いが高かったということだろう。村井氏のやるべきことははっきりしている。動物園・幼稚園からの脱却と旧来型県政への回帰阻止である。

◆ ◆ ◆

花岡信昭
花岡信昭氏
花岡信昭(はなおか・のぶあき=拓殖大院教授、政治評論家、元産経新聞論説副委員長)2011年5月14日、急性心筋梗塞のため死去、65歳。
長野県出身。早稲田大政経学部卒業後、昭和44年に産経新聞社に入社。論説委員、政治部長、編集局次長、論説副委員長を歴任した。平成14年に退社後は政治評論家として活躍した。

「くだんの同僚」と書いた花岡氏は副編集長として机を並べた。全紙面の編集責任者として翌朝まで勤務したが当番制なので同じ日にはならなかったものの、 よく外に飯を食いにいった。酒が飲めない体質なので飲むはずがないのだが、その後共に酒を酌み交わしたように記憶していたくらい上手に付き合ってくれた 。安倍晋三幹事長時代、企画した記事でインタビューをかって出てくれて、幹事長も間違って記憶していたことをさりげなく訂正して事なきを得た。好漢惜しむべし。

◇ ◇ ◇

今年(2006)、このホームページ「八ケ岳の東から」で野辺山に特化した天気予報が必要だと訴え、各方面に働きかけた。本当は県庁に出向き、知事から気象庁なりNHKに話を通すのが早いのは分かっていたが、絶対に行かなかった。知人の気象予報会社社長が好意で提供してくれるようになった矢先の知事選だった。落ちてよかった、人もいるのである。

そうそう、田中真紀子が嫌いな理由を書き忘れていた。自分から切望した外務大臣のポストをつとめる才覚がなく、北朝鮮の金正日の長男・金正男が、ニセ・パスポートで家族連れで、ディズニーランド見物にやってきたのを捕まえたのに、ちゃんと取り調べもしないで「あっちやって!」と手を振って中国経由で送り返した。あれを勾留して北朝鮮との取引に使っていたらテポドンもどうなったか、という外交オンチをあげつらうこともできようが、私の場合違う。

早坂茂三
角さんに付き添う早坂茂三秘書
竹下登の経世会旗揚げで田中派が蜂の巣をつついたようになったときのことだが、目白の田中邸にわが社のカメラマンら多数が張り付いていた。 早坂茂三という秘書が「オマエラ」呼ばわりして塀の上から記者やカメラマンに水をかけた。その時そばにいてけしかけたのが田中真紀子である。現場の記者たちから切歯扼腕の様子を聞いて、仕事で詰め掛けている連中を虫けら扱いにしたこの二人は許せないと思った。

早坂茂三はもうつぶれたが東京タイムスというローカル紙から秘書になった。曲りなりに新聞社にいたのなら、社命で張り付いている記者、写真部員のつらさは分かるはずなのに田中家の走狗となったのが許せなかった。田中派崩壊後、田中真紀子に嫌われて目白の田中邸から追い出され、かっての田中派七奉行の一人、小沢一郎に擦り寄った。新聞は相手にしなかったが、無節操でそうしたことは何も知らないテレビ局で政治評論家としていっぱしのことをしゃべっていたが、この一件以来信用しなかった。

秘書というより田中家の書生のような扱いだったが横柄な男で、後年JALだったかの旅客機で大騒動を起こしている。離陸時に椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに椅子を元に戻すように促されたが逆に怒鳴りつけ、機長の説得も頑なに拒否。おかげで出発が大幅に遅れた。翌日の新聞で報道されたので、やってるな、と思って見ていたが間もなく、肺がんで死んだ。

田中康夫、田中真紀子とも民主党の小沢一郎代表のところに転げ込んでOTT(オット)連合を組む動きがあるという。類は類を呼ぶたぐいだろう。虫唾が走るのがまた一人増えるかもしれない。

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春日一幸と田中角栄の「七人の妾」

「妾」(めかけ)と呼び捨てにするのは、なにやら憚られる時代である。「お妾さん」「2号さん」「愛人」あるいは「小指を立てる」、 など言い方、表現方法はいろいろあるが、中身が変わるわけではない。表向きの理由はともかく、コレで首相が失脚したり、噂が公になっ て総裁選への出馬を断念したり、代替わりに追い込まれる派閥の領袖も出るくらいだから、げに恐ろしきは女性問題だ。現在で は、女性スキャンダルを抱えたらまず落選を覚悟しなければならない。なにしろ半分は女性票である。

「妾」というと、粋な黒塀見越しの松・・のイメージで、私などは善悪よりもなにやら日本的な情緒を感じるくらいだ。 妾を持つのはけしからんとか、高尚な政治論を繰り広げようというのではない。ただ、すこし昔、国会にはそういう政治家がいくら でもいたということを紹介しようと思うだけである。これからの日本に、もう生まれないだろうが、いずれもどこか魅力的、愛すべ き人柄であった。

春日一幸
委員長時代の春日一幸
昭和43年の暮れ、御用納めが近い頃だったが議員会館の民社党の春日一幸・書記長の部屋に呼ばれた。この後、民社党委員長として野党の顔になる人物だが、このときはまだ書記 長。党の顔は西村栄一委員長なのに、すでに民社党を我が物顔に仕切っていて、番記者が張り付いていた。事務所にはもう一人、週刊誌、 「女性自身」の記者がいた。春日書記長はゲラを手に私に「明日発売で店頭に並ぶそうだ。あなたには包み隠さず 話してきたが、公になる以上職を辞することとした。このあと記者クラブで発表します」ということだった。この問題を知っている私に仁義を切っての呼び出しだった。

2、3週間前に「春日一幸は妾を持っている」とタレ込みがあった。公明党か共産党関係者からとは察しがついた。というのも2党にとって天敵みたいな存在だった。もともと共産党と公明党は仲が悪い。主義主張の対立などより票田が重なるためだろう。その2党を束にして喧嘩を吹っかけるのだから、相当腹が据わってないとできない。

それはともかく、私は話の展開よりも、春日一幸がゲラを手にしていることに違和感を持った。新聞記者なら誰でもそうだろうが、 自分が書いた原稿なり、それが活字になったゲラなりを相手に見せることなど考えられないし、むしろしてはいけないことと考えている。書き得などといっているのではない。もちろん書いたことには責任があるし、間違っていれば責任も取る。しかし、それは輪転機がまわった後のことである。そうならないように普段から再取材したり確認したり念を入れて書いている。

週刊誌というのは書いた原稿のゲラを相手に渡すのか、という驚きだ。もし、相手が「ここを直せ」と言ったら直すのだろうか。発売を差し止めろと言ったら東販、日販(ともに書籍、雑誌の大手取次店)から回収するのか。私はその後の新聞記者生活で暴力団の組長から呼びつけられ、ゲラを見せろと迫られたり、政治家から社の上司を通じてゲラを見せろと圧力がかかった経験があるが、一度も応じたことはない。

その後微妙な事件やスキャンダルのケースで、週刊誌の特ダネが新聞記事になるような時に、新聞社の編集局内に出回った週刊誌のゲラを見ることが何度かあった。むろん正式ではなく「好意」で渡されたのかもしれないが、この「緩さ」が信頼度の低さにつながっているのではないか。

春日一幸の演説は「春日節」と呼ばれた。古今東西いろんなところからの引用に独特の抑揚を加え、演説に自己陶酔もはいる。例 えば「わが民社党は、あの共産党の奴ばらをば千切っては捨て千切っては捨て・・・」といったぐあいだ。 名演説というと漢語をちりばめてというタイプが多いが、春日一幸にかかると一風変わったことになる。自民党と民社党の連立 の可能性について聞かれたときだが、「それは極めて重要な質問ゆえに、ここは英語で答弁いたそう。即ち、イット、ディペンズ、 アポン、サーカマスタンセスじゃ(その時の状況次第だ)」。人を食った応答で相手を煙にまくなどお茶の子さいさいだ。

タレ込みは本当だった。取材は普通、周りから調べて固めていくが、早い段階でご本人があっさり「さようでござ る」と認めたうえ、現在七人であることも口にした。名古屋に二人、春日部に一人、東京にウン人・・・とスラスラ。数は言わなかったが、外に子どもがいることも隠さなかった。これ以上調べる必要もな いくらいだ。なにより、民社党の番記者が毎日、書記長宅で行っている会見だが、その家が妾宅ときている。民社党担当記者は そんなこととっくに承知の上なのだった。

こういうことが記事になるのだろうか、考え込んでしまった。東京からも地元の名古屋からも離れて、なんで「春日部」なのか。語 呂合わせとしか思えない場所である。他の女性もみなそこそこのおトシであることから、戦争未亡人の面倒を見ているのではない かとも思えた。そうなるとなんだか美談のようでもある。迷っているうちに、議員会館に呼ばれたのである。

政治家と愛人。古今東西どこにでも転がっている話で、この項を書いている2006年10月でも、民主党の細野豪志衆院議員(35 )とTBS系「筑紫哲也NEWS23」の新キャスター、山本モナ(30)の不倫報道でにぎわっている。路上キスしているところを写 真週刊誌に撮られ、男は党に進退伺い、女は登板一日で休養宣言して雲隠れという。春日一幸ならどうコメントするか興味があるところだが、惜しいことに本人は彼岸に行っている。

白亜の恋
白亜の恋の二人
番記者が政治家の妾宅で酒を飲みながら待っているくらいだから、この時代、政界では色恋沙汰は珍しい話でもなんでもなかった。保守合同前の民主党代議士で妻子 持ちの園田直(すなお)と、のち社会党に吸収される労農党代議士、松谷天光光(まつたに・てんこうこう)が保革の党派を超えて恋愛、「厳粛なる事実(妊娠)」という 流行語ができたが、それから10年も たっていない。むしろ事に当たっての身の処し方が問題にされた。園田直も妻子を離縁、三度目の結婚式を挙げ(出席者の中に中曽根康弘の名前も)、以後何事もなく過ごし、厚生 大臣、外務大臣になり日中交渉にあたっている。


国連で演説する園田直外相
国連で演説する園田直外相
園田の名前が出たところで少し脇道にそれる。昭和50年代に外務大臣を三度務めた園田直は侍(さむらい)だった 。昭和56年( 1981年 )8月の日韓外相会談の席上、韓国側は安全保障問題で、共産主義に対する盾になって日本を守っているのだから、日本に5年間で60億ドル( 当時の金で 2兆1千6百億円 )というべらぼうな政府借款 と技術移転を要求したことがあった。それに対して園田外相は、「韓国では嫌いな相手からカネを借りたり、技術を教えてもらう社会習慣でもあるのか?」と 公式の席で発言している。

韓国は今も昔も反日教育や反日宣伝をもっぱらにし、ありもしない慰安婦問題で謝罪を要求しながら、その一方で日本に大量の資金援助、技術援助を求めてくるのが通例 で、この時もそうだった。園田外相はこうした非常識で国際儀礼を失した態度に公式の場で痛烈に批判したもので、これに対して韓国外相は歯がみして悔しがったものの 、まともな反論もできなかった。こうした腰の座った外相はその後見かけない。園田を「侍」と呼ぶ理由である。過去の「白亜の恋」の一事を持ちだして非難するものな ど一人としていなかった。

惜しくも昭和59年(1984)4月2日、糖尿病のため亡くなっている。現在、糖尿病患者は自分でインシュリン注射できるが、それまでは医者でなければ処置できず、患者は 不便をかこっていた。壁が取り払われたのは園田厚生大臣の英断のおかげだが、本人は自分の闘病には無頓着で演説原稿を巨大な文字で書いてもほとんど見えなくなっていた。

2月11日は祝日「建国記念の日」である。「建国記念日」でなく、なぜ「の」の一字が入るのか。これも”異能の人”と呼ばれる園田直の苦心の「作」である。この日 はもともと紀元節だった。昭和32年、自由民主党の議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。当然、野党第一党の日本社会党は保守政党の反動的行為 であるという理論を繰り広げて反対する。こうして9回も提出と廃案を繰り返した。

それが成立したのは園田直の名案からだ。野党第1党の社会党国対委員長石橋政嗣(後に委員長)と組み、「建国記念日」に「の」を入れて「建国記念の日」とすること で、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにした。いわば換骨奪胎を図る形で解決してみせたのである。こうして1966年(昭和41年 )6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。以後、園田は政界に「異能政治家」と注目されることとなった。

好漢・園田直を慕う人は多く、死後も彼の人柄に触れた記述を多く見かける。上述した、日韓関係への歯に衣着せぬ発言を紹介したサイトの亭主の一文は、その後産経新聞のコラム「産経抄」に取り上げられたほか、 マッカーサー元帥との会見の席での「臣・直」ぶりの一件など、あちこちで紹介されている。そうしたエピソードをまとめた。 園田外相の有名な発言(予算委員会での)「韓国では嫌いな相手からカネを借りたり、技術を教えてもらう社会習慣でもあるのか?」の動画も、最近見つけたのでこちらに入れました。(2020年3月10日)

【園田直 エピソード集】
(クリックで「エピソード集」に飛びます)

一方、天光光女史の方だが、初めて女性が参政権を得た総選挙で当選して、同じ議員の園田直と恋愛、前妻から男を奪った形になり、世間の風当たりは強く、為にその 後出馬するも四回落選した。以後、夫の内助に徹したものの、政治への情熱はさめず、直の死後、後継者として、熊本二区から腹違いの息子、園田博之が無所属で立候補す るや、対抗して、自民党中曽根派から立候補して「骨肉の争い」とマスコミを賑わせたりした。

園田天光光
93歳の園田天光光女史(2013)
結果は、息子の園田博之の大勝だったが、天光光女史はひるまず、自身の波瀾万丈の半生を振り返った著書「へこたれない心」を93歳に なった2012年秋 に出版している。折からNHKの大河ドラマ「八重の桜」で会津戦争で女ながら銃をとって戦い、のち同志社創立者の新島襄の妻となった山本八重が取り上げられ、同じ"ハ ンサムウーマン"としてメディアにしばしば登場するようになった。

2013年1月、朝日新聞のインタビューで「私たちの世代は関東大震災や戦争、戦後の食糧難といった修羅場を生き抜いてきました。私は戦後、餓死防衛同盟から立候補して 当選しました。当時疎開していた川崎市の稲田堤でも餓死者が出る時代でした。妻子ある園田との恋愛、結婚は大騒動になり批判されました。でも一切弁解はしませんでし た。へこたれない心があれば道は開ける。今まで生きてきて心からそう感じています」と答えている。
天光光女史は2015年1月29日、多臓器不全のため死去した。96歳。

◇ ◇ ◇

三木武吉
三木武吉
いわゆる「55年体制」と呼ばれる昭和30年(1955)の保守合同を成し遂げ、現在の自由民主党結党に動いた三木武吉の「メカケ談義」が美談として残っていた。
戦後まもなく、郷里の高松から衆議院選挙に立った三木を、対立候補が立会演説会で攻撃した。
「ある有力な候補者は、あろうことか東京で長年にわたってつくったメカケ三人を連れて郷里に帰り、小豆島に一緒に住まわせている。かかる 不義不道徳な輩を、わが香川県より選出すれば、県の名折れであり恥辱である」

これを聞いて登壇した三木は、
「先ほど聞いておると、ある無力なる候補は、ある有力なる候補者は、といったが、つまりそれは私のことを指したのである。私はたしかに有力な候補者で、私のことをいった男が無力な候補者であることは明らかである。その無力な候補者は、私がメカケを三人も連れて帰ったといっているが、物事は正確でなければいけないので訂正しておきますが、女の数は三人ではありません。五人であります」

満場が爆笑に包まれると一転、しんみりした調子で、
「高松を飛び出してから、随分、私も苦労しましたが、その間には、いろいろな事情から多くの女との関係ができました。そのかかわりを持っ た女たちは、いずれも年をとっていわば今は廃馬であります。けれども、彼女たちが私を頼る限り、私の都合で捨て去ることはできません。この人々を養うことは 、私の義務だと思っております。それも三人じゃない、五人です。訂正しておきます」(佐高信著『湛山除名 小日本主義の運命』岩波現代文庫/2004から )

相手に「有力候補」と言われて「無力候補」と応じる機敏、数を訂正するように見せて愛情ゆえと訴えるしたたかさ。見事なものである。その率直さが好感 を呼んで選挙では当選を果たした。

高橋是清。2・26事件で暗殺されたが、長く蔵相をつとめた。肖像は昭和26年発行の50円札の肖像に使われていた。
三木武吉はヤジられても強かったがヤジるのもうまかった。戦前、戦後の名ヤジとして今に至るも語り継がれているのが、三木武吉の「だるま発言」だ。大正9年1月、 原敬(はら・たかし)内閣が海軍拡張に乗り出したときの予算説明で、その風貌から「だるま蔵相」の異名を持つ高橋是清(のち首相)が「この計画のため陸海軍は ともに難きを忍んで長期の計画とし、陸軍は10年、海軍は8年」と言ったとたん、議場から「だるまは9年!」と三木のヤジが飛んだ。

次の瞬間、議場も傍聴席も大爆笑となった。当の高橋蔵相も吹き出し、原首相を振り返り、二人で大笑い。「面壁9年」の達磨(だるま)大師の故事を8年計画にひっ かけた風刺で、“野次将軍”の異名をとった三木のヤジのなかでも最高傑作といわれたものだ。

彼のヤジは当意即妙でユーモアと知性があった。若槻内閣の蔵相を務めた片岡直温(なおはる)が本会議の演説で、結核を「ケツガイ病」と繰り返した。すかさず三木 が「それはケッカクと言うんだ」とヤジ。片岡はむきになって「ケツガイとも読む」と反論すると、三木は即座に応じ、「あたかも汝(なんじ)の名をジキヌルと言 うがごとし」と追い打ち。片岡は「うっ…」と詰まって立往生したという。片岡はのち歴史に残る大失言で銀行の取り付け騒ぎを起こして「昭和大恐慌」の原因をつ くったことで知られる。

寝業師といわれた三木は吉田茂を倒すことに生涯を賭けた。もともと吉田も三木も自由党に属していた。その二人が離反したきっかけが今でも衆議院解散のた びに持ち出される「バカヤロー解散」である。

バカヤロー
バカヤロー解散のきっかけ。吉田茂の答弁。
史上名高い「バカヤロー解散」の舞台は昭和28年(1953)2月28日の衆議院予算委員会。吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が「バ カヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散されたのだが、もとは些細なやりとりだった。それを最大限利用して新党結成(民主党)、 吉田追い落とし、その後の保守合同(自由民主党)までもっていったのは三木武吉の策略のなせるワザだった。

問題となった、吉田茂と西村栄一の質疑応答の内容だが、国際情勢についての質問だった。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」

吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統 領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります」

西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の 総理大臣の楽観論ではなしに、日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策を お述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」

吉田「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたのであります」
(ステッキを握りしめて立ち上がるなど次第に怒りが表情に出てくる)

西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」

吉田「無礼なことを言うな!」

西村「何が無礼だ!」

吉田「無礼じゃないか!」

西村「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁 できないのか、君は……」

吉田「ばかやろう」
(吉田は非常に小さな声で席に着きつつ「ばかやろう」とつぶやいたのだが、たまたまその声をマイクが拾った)

西村「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!」

まずいと思った吉田は直後に発言を取り消し(そのため議事録にも載っていない)、西村栄一もそれを了承した。しかし、この失言を鳩山一郎と三木武吉ら 自由党非主流派が利用しにかかる。右派社会党をたきつけて、吉田首相を懲罰委員会に付託するための動議が提出される。さらに追い討ちをかけるように内 閣不信任決議案が提出された。これに自由党鳩山派30余名が脱党し不信任案に賛成したために3月14日に賛成229票、反対218票で可決されてしまう。これを受 けて吉田は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになった。これが「バカヤロー解散」。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗した。かろうじて政権は維持したものの、以後少数与党に転落し吉田の影響力は急速に衰えていき、やがて吉田 退陣につながる。晩年吉田はその回想録の中で「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任案に同調した与党の仲間を「裏切り」と呼び、「当時起こった多 くの奇怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べている。

造反した三木武吉ら自由党鳩山派は民主党を結成し、次の選挙に備える。そして昭和30年の総選挙では鳩山ブームに乗って自由党を押さえて第一党になった。 鳩山一郎総裁、岸信介幹事長のもとで三木は総務会長に就任したが、少数与党でもあり政権基盤が弱いことが難点だった。そこで次のステップ、保守政党の結 集に乗り出していく。

小りん
晩年の吉田茂(左下)と小りん(右端)
ところで、三木の政敵、吉田茂にもまた愛人がいた。吉田茂は妻の雪子を戦前の昭和16年(1941)に亡くしているが、それよりずっと前から新橋の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を愛人にしていた。妻の死後、三女、和子(麻生太郎元首相の母)の勧めもあり密かに大磯の自邸に招き入れた。世間体を考えて極秘にしていたが、すぐ新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。これがカメラマン嫌いの原点とされ、昭和27年、京都でカメラマンに水をかけたのもその因縁からとされている。

もっとも、スクープ写真で広く知られたことで、世間体を気にする必要もなくなり、昭和19年(1944)に正式に彼女と結婚、入籍している。神奈川県大磯町西小磯の家は吉田茂引退後も政府要人の大磯参りやワンマン道路で名を馳せたところだが、2009年3月22日午前早朝の火事で木造2階建て住宅約890平方メートルが全焼した。

三木武吉の話に戻るが、鳩山政権はできたものの少数で政権基盤が弱かったことと、保守二党では政争に明け暮れて、政策の実行がままならないという政局観から保守二党の合同に乗り出す。相手の自由党は緒方竹虎総裁、大野伴睦総務会長だった。大野と三木は敵対関係にあったが、保守合同のため昭和30年5月15日、大野伴睦と共通の知人の家で偶然を装って会う。三木は浪花節と愛国の情で巧みにかき口説きついに大野の賛成を得る。

身内の民主党内では松村謙三、三木武夫らが保守二党論を唱えて猛反対していた。(同じ三木だが三木武夫はのちに「青天の霹靂」で第66代内閣総理大臣になった) これに対し三木武吉は保守合同の障害となるなら、できたばかりの鳩山内閣だが総辞職も辞さないと発表、鳩山首相も涙ながらに内閣総辞職を口走り、あわてた反対派 は賛成にまわり一気に保守合同へ向かった。

保守合同
いわゆる「55年体制」のスタートである保守合同で
万歳する、左から鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、岸信介。
最後に総裁に誰がつくかをめぐり自由・民主両党の議論が平行線をたどった。結果、総裁を棚上げし、鳩山、緒方、大野、三木の総裁代行委員を設置することでまとまる (5か月後、鳩山が自民党総裁に就任)。これが現在の自由民主党である。三木はこの時すでに医者からガンの告知を受けて、余命三年といわれていた。

三木はこうした保守政党の結集構想を東京・神楽坂にある料亭「松が枝」で練った。「松が枝」は明治時代から続く老舗で、この時の女将「お竹さん」は三木のお妾さんだった。 お竹さんが亡くなって、妹のお梅さんが経営者になったので、この料亭のことを「松・竹・梅」と言ったが、昭和40年代に「松が枝」はなくなっている。 三木は翌年7月4日、保守合同を見届けるように72歳で亡くなった。枕頭(ちんとう)で泣き崩れる鳩山の写真が残っている。お妾さんの存在など一度も問題 にならず、現在、栗林公園に銅像まで建っている。

保守合同までの経過と奇策を駆使した三木武吉の動きは産経新聞の記事「政党政治(2)」 (2013.5.11付)がわかりやすい。(その後サーバーから削除されたのでテキストと写真のみ再録した)

この道は洋の東西を問わない。モテたことで有名な人物にローマ皇帝シーザー(Gaius Julius Caesar)がいる。現在の表記では「カエサル」が主流なので従うが、塩野七生著「ローマ人の物語」では女性が列をつくって順番を待つほどモテたという。のちに「ブルータスお前もか」で有名なカエサル暗殺の首謀者、ブルータスの母親もこの列に並んでいた一人だという。エジプト遠征でクレオパトラと浮名を流す前の話だ。

ハゲ気味の美男子でもない男がモテまくった理由は塩野説によると3つある。莫大な借金をつくるほど女性に豪華な贈り物をした。愛人が居ることを誰にも隠さなかったからスキャンダルにならなかった。自分からは女の誰とも手を切らなかったから誰にも恨まれなかった。

「女は無視されるのが何よりも傷つく。人間の心理をうかがう上で女と大衆はまったく同じである」とローマ史の分析から鋭い人物論は続く。 三木武吉は「女3人喧嘩させぬよう御すことができないで、なんで一国の総理になれるか」と豪語した。英雄色を好む、とまでは言わないが、カエサルと三木武吉、女性論、政治論で一脈相通じるものがある。

この時代、政界でもごく普通に「臍(へそ)下三寸人格なし」と公言されていた。だいたい、こんな話を政治記者が書くのは筆の穢れとしていたくらいなのだが、ちょうどこのころ女性週刊誌が出てきた。美容院の話題は今も昔も皇室ものとスキャンダルだ。誰も書かなかったことを記事にしようという媒体が現れて、それまでの不文律が崩れた。

ついでに脱線するのだが、2006年秋、地下鉄の車内吊りを見ていたら「雅子さまが心配する友達の輪に入れない愛子さま」とあった。中は見てないが、いかにも皇室を心配するように装って「疎外されている」「笑顔を見せない」などと、針小棒大に並べて、さも自閉症であるかのように書く手口が見え見えだ。

テレビを見ていたら画面の下に流れる人物紹介のテロップに、女性誌の「皇室担当記者」とある。自称だからなんでもいいようなものだが女性誌にそんな記者はいないはずだ。女性誌も週刊誌も宮内庁記者クラブに入れてもらえなかったから、直接取材はできない。加盟社の新聞記者にアルバイト料を払ってウラで会見内容や皇室関係の話を聞いたりしていたものだ。流したわが社の記者を叱りつけたことがある。受け売りの推測記事は昔から女性誌の常套手段だった。皇室はいっさい反論しないのをいいことに訂正記事、謝罪広告の必要もない。こういう卑しい記事を読む方も下卑た女性だろう。こうして世の女性は車内の化粧女と同レベルになっていく。醜い。

話を戻すが、私は春日一幸を取材していたその12月のはじめに産経新聞大阪社会部から東京の夕刊フジ報道部に異動したばかりだった。創刊は翌年の2月だから、書いたところで掲載する場所もなかったのだが、こんなケースならどう扱うか、社内の研究材料としてタレコミのウラを取っていた。どんな新聞になるのか春日 一幸から取材されたくらいで、生い立ちから女性観までなんでもよくしゃべってくれた。

このお妾さんの件が女性誌に書かれた後のことだが、選挙区の愛知1区で演説中、聴衆から妾の数でヤジが飛んだ。すかさず応じて「むかし三木武吉さんが7人と答えたが、私 は6人だ。日曜日は女房のためにとってある」と答えた。

上記のように春日は民社党の書記長時代から気のおけない新聞・放送記者らの番記者を集めて「仲よし会」を作って年に2度ほど飲み会をやっていた。あるとき「2 号の送別会をやるので集まってくれ」と、とある料亭に召集がかかった。行ってみると「彼女が50歳になったので大奥のしきたりを真似て、夜のおつとめを卒業させ たい」ということだった。彼女はその料亭の仲居頭だった。そのときの番記者が書いている。

その記述によると田中角栄や池田勇人、大野伴睦らは芸者オンリーだったが、春日は芸者には手を出さず、仲居や女中専門だったそうだ。

ハービーのエレキギター
マニアにいまも人気がある
ハービーのエレキギター
愛好家なら知っている「heerby」(ハービー)というギターがある。マニア垂涎の的は春日楽器の製造で、そこの社長が春日一幸 である。命名はハービー=ハル・ビ=春日というシャレだ。なんで自民党でなく野党の民社党なのかはその履歴をみないとわか らないかもしれない。波瀾万丈の人生だ。

春日一幸
最晩年の
春日一幸
春日一幸(かすが・いっこう)
明治43年(1910)3月25日、岐阜県の長良川下流のほとり、海津郡東江村の農家に生まれた。7人姉弟のうち男は一人だから 農家の跡継ぎになるところ、成績がよく、母親に「男、望むなら王まで望め」と尻をたたかれ、名古屋逓信講習所に入学。昭和3 年には名古屋市中央郵便局で電信マンとして将来を嘱望されていた。

18歳のときプロレタリア文学を読みあさり、林芙美子などのダダイズムに傾倒、20歳のとき上京、林芙美子のところに書きため た詩を持ち込んだものの相手にされない。10日間ねばって、当時の詩文学の第一人者・生田春月にわたりをつけてもらうことに 成功する。これが激賞されたことから、文学へ進むことを決意、郵便局に辞表を提出する。逓信講習所は官費学校であったため 、卒業後3年間は実務に服するという義務があり、途中でやめると学費の弁償金は600円だった。ソバ一杯4銭の時代。激怒し た父に勘当される。父の投げ出した10円札と、母が涙をぬぐって捨てたちり紙をお守りにと拾い、家を出て東京へ。

佐藤春夫に「詩で飯の食える人は一人もいない。売れっ子の北原白秋でさえ、その原稿料は一週間分の暮らしにも役立ってい ない」と諭されすっかり落ち込む。居候していた友人宅にもいられなくなり、名古屋へ帰り、薬物自殺をはかる。23歳のときだっ た。一命をとりとめ、両親の悲しむ姿を見て立ち直りを決意する。

昭和9年。外人バイヤーが瀬戸の陶磁器、雑貨の買い付けに名古屋に大勢やってきていた。学生時代の経験を生かして通訳を 引き受けたことがきっかけで貿易商からノウハウを学ぶ。当初、楽器や蓄音機の輸出入をしていたが、大手取引先のインド人と 出会い、独立して楽器製造会社を設立する。会社は軌道に乗り急成長した。結婚して長女も生まれたが戦争で灰燼に帰した。

戦後、工場再建に追われながら、次第に社会・国家というものへの疑問が芽生える。昭和22年4月。新憲法下初の県議会議員 選挙に出馬。著名人の応援といえばこのホームページでも紹介した鈴木ヴァイオリンの鈴木鎮一だけだったが、なんとか高位 当選を果たした。

愛知県議会議員時代、中小企業のつらさを知る春日一幸は、中小企業の経営助成に尽力する。進駐軍から露天商の屋台撤去 命令が出されると、憲兵司令部へ乗り込み直談判の末撤回させた。信用の足りない中小企業には、県出資の機関が保証人に なって金融を受けやすくする金融保証協会制度を提唱した。今も全国に普及している制度だ。さらに中小企業の火災共済制度 も実現させた。

昭和24年(1949)7月1日。猛暑の名古屋で、流れ落ちる汗をぬぐいながら愛知県議会本会議場で春日一幸が大演説していた。 傍聴席は労働組合はじめ民主団体で超満員。県庁周辺にはなお3000人の大衆が群がっていた。午後2時壇上にあがりえんえ んと演説は3時間を越えていた。

進駐軍から提案されたデモ規制の公安条例の反対討論だった。「言論・集会・結社の自由を抑圧するものである」として断固反 対。一日会期で招集された議会でなんとしても阻止しなければならない。73人中13人という弱小の党で勝つためには、と考えだ した奇策が、反対討論を会期の時間切れまで続けて審議未了廃案に追い込むことだった。

そんな長時間演説できるか、軍政部に報復される、などの心配をよそに、時間切れを確認して春日一幸が壇を降りると議場はど よめきの中散会が叫ばれた。ほっとして廊下へ出た一幸めがけてGHQ(進駐軍)軍政部のアメリカ軍中尉が駆け寄ってきた。すわ報復かと思っ たら中尉は肩を抱き、「すばらしい。民主政治はかくあるべきだ。敬意を表したい」と絶賛したという。

ハリウッド映画にジェームス・スチュアート主演の「スミス都へ行く」(1939年。原題「Mr. Smith Goes to Washington」) というのがある。上院議員の穴埋めとして政治の世界に送り込まれた男が、 腐敗に気づき、たった一人で抵抗する。議案を葬る方策が、長時間演説で切り抜けるというストーリーだ。米軍中尉はこの映画を見ていたのかもしれない。

◇ ◇ ◇

この映画のハイライトシーンが動画サイト「You Tube」にアップされていた。第12回アカデミー賞で作品賞を含む11部門にノミネートされ、原案賞を受賞。 主演のジェームズ・スチュワートはニューヨーク映画批評家協会賞において男優賞を受賞した。日本で上映されたとき私は中学生くらいだったが、大阪・千日前の映画館で これが民主主義というものかと感動した覚えがある。


(右向き矢印クリックでスタート)

「You Tube」で原題で検索すると音声付 でたくさん出てくる。
「google video」では2時間余のものもアップされている)

物語
スミス(ジェームズ・スチュアート)は田舎のボーイスカウトのリーダーだったが、死亡した上院議員の代わりに、 政界に担ぎ出される。州を牛耳るテイラーが計画しているダムの法案を通すためには、政治に疎い者が望ましい という理由からだった。

ワシントンで議員活動を始めたスミスは、少年キャンプ法案を提出した。こどもたちは喜んでお小遣いを送ってきた。 ところが、その予定地はテイラーたちが計画するダム建設予定地で、裏には大きな汚職が絡んでいた。スミスは、この 汚職を議会で追及しようとするが、逆に子供らの小遣い銭泥棒にされ上院から追放されそうになる。

しかも、父の友人であり師と仰ぐペイン議員も敵陣営にまわっていた。彼の手で除名動議を出されてしまう。傷悴した スミスは辞めて帰郷しようとする。その前に尊敬するリンカーン記念堂を訪れた。そこに彼の秘書サンダース(ジーン・アーサー) が現れ、彼を励ます。「リンカーンの時だってあゝいう連中はいたわ 。でも彼は逃げなかった 。そういう人がいるから 救われるの よ。逃げだしてはだめ。議会はあんな連中ばかりじゃない 」

秘書サンダースから、上院の議事手続として、いったん発言権を得れば、発言をやめない限り、無制限に演説を 続けることができるというルールを知った。これは、フィリバスター(filibuster)と呼ばれ、少数派の権利を守る合 法的な議事妨害手段だった。

スミスは23時間以上話し続けた。喉がかれてガラガラ声になり咳き込む。それでも、なお話している。 そして演 説が続いている間、彼の最大の支持者である地元の子供たちが、汚職の実態を知らせようと奮闘する。そっぽ 向いていた議員たちもスミスの話を聞き始めたが、その時、州民からの山のような抗議の電報文が議場に運び 込まれる。

偽ものだったが絶望したスミスは「これが負け勝負か。ペイン氏にはわかるはずだ。昔は氏も負け勝負を好んで 闘った。憎悪のはびこるこの社会でそういう人は貴重だ。だからあなたが好きだった。皆さんは僕の負けと思っ ているだろう。違う。僕はどこまでも負け勝負を続ける。この欺まんだらけの議場でそのうちにだれか一人、一人 ぐらいは僕の話を…」 といいながら倒れる。いたたまれなくなったペイン議員は議場を出る。

その時、銃声がする。自殺しようとしたペインが止められている。「死なせてくれ。生きていられない。ダムは不 正だ。私は州民を裏切った。彼の話はすべて本当だ。除名してくれ 私には資格がない」。

騒然とする議場を静まらせようと議長は手を上げかけるが、やがてあきらめて両手を首の後ろで組み、ゆっくり 議長席を前後に揺すっている。民主主義の原点を楽しむかのように。

◇ ◇ ◇

昭和27年(1952)講和条約発効。日本が独立後初の第二十五回総選挙に出馬する。定数5人に約4倍の立候補者という全国屈 指の激戦区愛知県第一区で初当選をはたし、国会へと舞台を移す。この選挙では、愛知県議会では党派を越えて全員が春日 一幸に資金カンパを寄せた。その後も名古屋が民社党の牙城となるのはこうした伏線があってのことだ。本人も「愛知には 民社民社の 風が吹く」と豪語していた。

国会の場でも、春日節の名調子と武勇伝は数知れず。与党議員と灰皿をぶつけあい、与野党数十人の乱闘騒ぎを起こしたり、 公務執行妨害などの告発を受けるなど血気盛ん。「経済の自立がなければ民族独立はない。日本経済の基盤は中小企業であ る」と主張し、中小企業問題の解決を最大の任務とした。昭和30年には中小企業政策研修会を創設、いわゆる「春日学校」とし て、数多くの中小企業保護法を生み出す母体となり全国4千万の中小企業者からは「中小企業の父」と呼ばれ慕われた。

人情家で、宝くじ売り場で戦争未亡人が、100万円の当選くじを拾い、正直に届け出をしたところ、法律上の不備から当選金を受 け取れないという記事を新聞で読み、憤慨して法律改正に骨折ったというエピソードも残っている。冒頭でお妾さんは戦争未亡人か、と考えたのはこちらの伏線からだ。

公明党嫌い、共産党嫌い、でならし、69〜70年の公明党=創価学会の政教分離問題では、国会で「信教の自由、政教分離の 原則を定めた憲法二十条は、宗教によって政治が支配されるのを防止することをうたったもので、宗教団体が教義によって政権 の獲得をめざす政治的な活動を放置することは断じて許されるべきではない」と池田大作・創価学会会長の証人喚問要求を出 した。
また共産党宮本スパイ事件(潜入したスパイをリンチで殺したとする)では宮本顕治・日本共産党委員長 の証人喚問を要求する などで国会で追及している。

政治の勘は抜群で、社会党が大平内閣不信任案を出した時「その程度のことで不信任案なぞいじくりでもしたら瓢箪から駒じゃ 、とんでもないことになりかねんぞ。もしやしたら自分の首を絞めることになるんじゃぞ」と言ったが、結果は大平急死で自民圧勝 、社会惨敗。

自民党国対との折衝では、自民党側の理屈を聞いて「理屈は貨車で後からついてくる」と評した。今でも使われる「名言」だ。 「ひるはひねもす 夜は夜もすがら 春夏秋冬 まつしぐら」。国会のすぐそばにある憲政資料館には人生訓か語呂あわせか分からないが自筆の色紙が残されている。平成元年5月2日、死去。

その春日一幸に「母への手紙」と題した一文がある。

私がやりたいことは、只ハラハラして、良くても悪くても、あなたはそれをジッと優しくくるんできてくれました。こんな深く濃い母と 子というものが、外にあるでしょうか。私はもっちりした味の、温かいこころのあなたという上等の母を持ったことを、本当にあり がたいことだと思っております。

果てしない夢を追ってその後、私が古里を出てまたもや街なかで繰らすになった時、私はあなたが息子のために流されたあの 涙のにじんだチリ紙を、永らくの間、肌身離さずお守りにして、持ち歩いておりました。何時しか、その尊いお守りを失ってしまい ましたが、しかし、私のために何回も何回も泣いて頂いたあなたの涙は、私の体の中に流れが溜まって、そのまましっかりと私 のいのちのもとになっております。旅先の食べ物の不自由から、とんでもない長い手紙になってしまいました。この私の涙が溢 れて止まりません。

母上、これからは、私ももっと落ち着いて、なるべく心配をかけませんが、ほんのこころのつぐないに、あなたも私に、何か無理 難題をいい付けてくれませんか。 今、私の願いは何かと訊ねられれば、「それは次の世もあの頑固な父、でもこすいことや、ずるいことの微塵もなかったあの父 の子として、同じあなたの腹から生まれたい」という、このひとことです。そして、その次のまたその次の、次の世も−−−。

 

このチリ紙というのは冒頭で紹介したが、家出のとき勘当を申し渡す父の傍らで泣いていた母が涙をぬぐったものだ。自らが起業し、育て上げ、いっときは業界のトップクラスにのし上がった春日楽器製造だが、その後経営難がつづき春日一幸は苦慮する。バブル崩壊後ついに倒産、設備、技術は一時国内企業に買い取られた。現在は中国でバンジョーやマンドリンを作っているという。



田中角栄も7人の妾

角栄総裁
昭和47年、自民党総裁選に勝利したときの田中角栄
春日一幸は1965年の日韓国会で国対委員長として自民党の田中角栄幹事長とのパイプを築き以後は親・自民を鮮明にしてい く。親しかっただけに、田中家の内情にも通じていて、上記の取材のとき「角さんも7人おるぞ」と、大きな声で聞かされた。 なぜ5人とか6人でなくそろって7人なのか。前後いろいろな出入りがあったのだろうが、「7人の侍」と同じく、語呂がいいので そういったのかもしれない。

調べるとその通りで、全員玄人筋の女性だった。住民票を取るなどしてチェックできたのは5人ほどだったが、中には姉妹芸者を500メートルほどしか 離れていない目黒区のある場所に囲っていた。ただ記事にはしなかった。写真週刊誌など存在しなかった時代で、こんな話は 紙面になじまないという判断の方が勝(まさ)ったのだ。

いちいち詮索しても仕方がないが、政界ではこの手の話はわんさとある。しかし、幹事長とか党三役になって総理総裁への道 が見えてくると、側近が気を利かせて「整理」する。整理するというのは手切れ金を渡して、生活が立つようにして消えてもらうこ とを意味する。ここをうまくやらないと後日スキャンダルに巻き込まれる。

角さんと毛沢東
ここでは下ネタを扱っているが、なんといっても田中角栄最大の業績は
日中国交正常化。毛沢東主席と握手する田中角栄首相。
左端は周恩来首相=1972年9月29日、北京市内 
政治は夜動く、と言われる。房事のことで動くこともあるが、本当に夜の間に一変することがある世界だ。上で春日一幸と角さんが親しかった話を書いたが 、夜中目白の角さんを春日が訪れだことがある。

1973年に第2次田中角栄内閣が突如として小選挙区比例代表並立制を衆議院に導入しようという計画を立てた。区割り試案まで示され、与野党を揺るが す大騒動になる。特に小党にとっては死活問題だ。そこで5月某日の深夜、民社党の春日一幸委員長は東京・目白台の田中邸に乗り込み、就寝中の田中を起こして 断念を迫った。田中は「共産党の進出を封じ込めるために不可欠だ」としたが、春日は断固として引かない。

「今夜は党の代表として発言しているのではない。国を憂う一人の国士として言っているんだ。もし、自民党が強行するなら、社公民とも一緒になって新しい政治 団体をつくり、1人区では共同して保革対決に持ち込むことも辞さないぞ」と迫った。この春日節が効いてその場で断念した。=三宅久之著「書けなかった特ダネ」(青春新書)=

二人は女性問題だけで親しかったわけではなく、政治家として親交を結んだ。その横に小指の問題があったといったところだ。

こういうことを角さんはあまり隠さなかった。山本夏彦がエッセーで書いている。
「田中角栄はよく赤坂に遊んだ。白昼『千代新』に電話して、これから行く、誰でもいいがあいている芸者を呼んどいてくれと命じて行って、三 十分そこそこで帰ったという。角栄だから不見転ではない。すこしは名のある芸者が枕席に侍ったのである。赤坂がそうなら新橋もそうである。 祇園も例外ではない。ただ芸者は芸を売って色は売らない看板を出していたから素人はそう思うがそうではない」

料亭の発祥からいうと、江戸の出会い茶屋に発する「待合」という色合いが強いものと、割烹料亭を看板にするもの、あるいは両方を兼 ねるものがある。今でもそのまま残っている。会合に使われることもあるし、色に使われることもあるところなのだが、今ではそんなこと理解する人は 少ない。

昔は芸者など玄人筋は口が堅かったが、その後素人のようなのが増えてきたせいか、口が軽くて週刊誌などに売 り込んだりするのが出てきた。最近はこっちの例が多い。口が堅いはずの料亭の下足番だって暴露ものを出版するようになって、 その道の人をして「世も末」といわしめたものだ。かなり昔になるが、成田山新勝寺の高僧が死んだ時、新橋の芸者を囲って いたなどという週刊誌記事が出るのは、こうした経緯からだ。

キバナノヤマオダマキ
角さんと鯉(1972年7月、自民党総裁時代)
「政治家はどうしてあんなに料亭が好きなんですかね」と聞かれたことがある。その人は政治家は金回りがよくて舌が肥えているから味と季節感を 大事にする割烹が好きなのだろうと思っているようだった。確かに、多くの国会議員と会って思うことの一つに、与野党関係なく、共産党の議員に 至るまで背広と靴が格別上等なことがある。ほとんど例外なくこちらのスーツと短靴がみすぼらしく見える。昔ほど派閥の親分から金がまわってこなくなった現在でもそうである。かねがね不思議に思っている。

政治家が料亭を愛用する理由は会合にしろ色にせよ、この世界の「口の堅さ」である。どの新聞にも首相動静がベタで掲載されている。逐一行動が把握されているから、隠密行動が取れないように思うが、料亭では表向きの会合とは別に別室で密談を凝らすことができるのである。料亭も決して客の動きと発言を外にもらすことはない。現に安倍晋三首相は2006年10月、中国から帰国してすぐ、発表では「首席秘書官と会食」となっている部屋をすり抜けて、別室で青木幹雄参議院議員会長、森喜朗元首相らと郵政造反組の復党などについて密談している。

角さんの人心掌握術で有名なのに葬式がある。政財官界その他に張り巡らされたネットワークがあるらしく、通夜の席には誰よ りも早く駆けつける。マスコミも早い方だろうが、記者が駆けつけるとすでに角さんが最前列でバタバタと扇子を動かしている、と いうのが多くて、どこで聞きつけるのかと政治部でも七不思議だったくらいである。そこにもってきて、香典を世間相場の10倍く らい包む。相手が恩義を感じないわけがないのである。角さんが葬式を大事にしたわけをこう言っている。「結婚式は招待状がなければ行けないが、弔いに招待状はいらない」。 人が失意のどん底にいるときこそ慰めの言葉とお金が力を発揮するというのである。

新聞社はなぜ東京・大手町に社屋を構えているか

東京・大手町は日本の中心的ビジネス街だが、同時に新聞社の中央紙がみな軒を並べている。なぜこんな一等地に社屋を構えることができたのか。答えは、大蔵省が管轄する国有地を払い 下げてもらったからである。読売、産経、日経は隣同士だし、200メートルほど離れる竹橋の毎日新聞も、築地にある朝日新聞もみな元は国有地だった。(日経は産経の並びにあったが、大手 町地区第一次再開発事業で、通り2つ皇居寄りに日経ビル(地上31階、地下3階)を建て2009年引っ越したがここも国有地)

それまでは新聞社の多くは、銀座近くの国鉄有楽町駅前に社屋を構えていた。今でこそ自社配送のトラックが主流だが当時は輪転機からの梱包を目の前の国鉄の列車に積み込み、遠いとこ ろから順に地方に発送していた。このとき、輸送費用を格安にする制度が「第三種郵便」で、その認可権は郵政省にあった。サイトの亭主は日本初のタブロイド夕刊紙「夕刊フジ」の創刊 (昭和44年)に携わったが、この「第三種郵便」の認可を取るのに角さんには大いにお世話になったものである。「がんばれよ」と角さんに声をかけられた、と当時の上司から聞いた。

利権がどこにあるか動物的本能を持ち合わせていた角さんが、マスコミを牛耳る方法を編み出したのは1957年(昭和32年)7月 、第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任した時からだ。戦後 初めて30歳代での国務大臣に就任するや、管下の電波行政権を使ってテレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社⇔キー局⇔ネット局という民間 放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中派の飛躍の原動力に なった。サイトの亭主も各県で自社系列のテレビ局免許を取るため何十社というダミーを立ち上げて申請した一助を担った。

新聞各社は手狭になってきた有楽町からどこか近くに新社屋の建設を迫られた。そのとき、移転先として白羽の矢が立ったのが当時一帯が国有地だった「大手町」である。角さんが大蔵大臣に なったのは1962年(昭和37年)7月の第2次池田勇人内閣の改造の時でこの時には大手町にほとんどの新聞社が社屋を建てていたから、田中角栄蔵相の裁可ということではないが、それ以前から 大蔵省に大きな影響力を持っていたのである。新聞各社、偉そうなことを言っているが、実は角さんに足を向けて寝られない恩義があるのである。

田中角栄
独特の人心掌握術を持っていた田中角栄

ところで角さんは官僚の人心把握に独特の「才能」を持っていた。その例として1962年(昭和37年)、第2次池田改造内閣で大蔵大臣に就任した時のキャリア官僚を前にしての訓示が有名だ。44歳での蔵相就任は憲政史上最年少だった。大蔵省の講堂で並みいる大蔵官僚たちに向かって、こう話しかけたという。

「自分が、田中角栄である。こ存じのように、わたしは高等小学校卒業。諸君は全国から集まった秀才で、金融財政の専門家だ。しかし、棘のある門松は、諸君よりいささか多くくぐってきている。今日から諸君と一緒に仕事をすることになるのだが、わたしは、できることはやる、できないことは約束しない。これから、一緒に仕事をするには、お互いをよく理解することだ。今日から、大臣室の扉は常に開けておくから、我と思わん者は誰でも訪ねて来てくれ。上司の許可はいらん。仕事は諸君が思うように、思いっ切りやってくれ。しかし、すべての責任は、この田中角栄が負う。以上」

高等小学校卒の土建屋あがりの大臣が来たとたかをくくっていた大蔵官僚たちは、この挨拶で「この大臣はタダものではない」と表情が変わったという。これだけではない。新人の入省式の時には、大臣室に並んだ待つ20名の新人官僚の一人一人と握手をしながら「やー〇〇君、頑張りたまえ」と全員の名前を間違えずに呼びかけていった。メモも見ず、秘書官が耳打ちしたわけでもない。あらかじめ20名全員の顔と名前を覚えていたのだ。

「諸君の上司には、馬鹿がいるかもしれん。諸君の素晴らしいアイデアが理解されないこともあるだろう。そんな時は俺が聞いてやる。迷うことなく大臣室を訪れよ」

これでキャリア官僚はいっせいに田中になびいていった。田中は官僚の中でも特に課長、課長補佐という実務の中心にいる世代を重視した。課長や課長補佐の入省年次、学歴、誕生日、家族構成、奥さんや子供の誕生日や結婚記念日まで細かく調べあげ、これと思う人材は自宅へ呼んで大蔵省内部の事情を聴き、実務の内容をくわしく尋ね、高価なお土産をもたせた。また結婚記念日、子供の入学などにもこまめに祝儀を贈った。こうして課長たちは、次第に田中に信頼をよせるようなり、省内の細かな情報さえも報告するようになった。ボーナスの時期になるとポケットマネーで課長以上の人間に当時の金で総額2千万以上もの金を使いボーナスを渡した。

田中の人心掌握術は「天才的」といわれた。のち田中派を継いだ額賀福志郎は58年の衆院選出馬にあたって田中から「有権者の3分の2と握手してこい」と厳命されたが、指示内容が 詳細だった。集会では「『私なんか手を握ってもらえない』と思っている隅っこのおばあちゃんとだけ握手しろ」。訃報があれば「初七日にも花を出せ」とも。「葬儀は慌ただし くて親族は悲しさがわからない。みんながいなくなって『ああお父ちゃんが死んだんだ』と悲しさを実感する。花はその時に出すんだ」と言われた。

安倍政権時の自民党幹事長(2013年)、石破茂は「田中イズム」を叩きこまれた一人だが「歩いた家の数、握った手の数しか票は出ない」と言われた。自身が初当選した61年 の衆院選で、このことを改めて実感した。地元の鳥取県内の5万4千軒を回り、得た票は5万6534だった。

田英夫
田英夫(1977、参院時代)
2009年11月13日、田英夫(でん・ひでお)元社民党参院議員が86歳で亡くなった。テレビキャスターの草分けだが、政界入りした時角さんから 金を渡されたことを告白して、その電光石火のすばやさに感嘆している。

1971年夏ごろの佐藤政権末期、田はTBSを退社し、社会党から参院選全国区に出馬、192万票の大量得票でトップ当選した。その直後、田は陳情ごとがあって田中角栄通産相の大臣室を訪ねた。田中は話題の人物を機嫌良く迎え入れ、「よし、よし、わかった」とつぶやきながら、かたわらの紙片に頼みごとをメモし、やおら、「おーい、次っ」と大声をあげた。

田が、「じゃあ、大臣、よろしく」と腰を浮かしかけた、その時、田中の右手がさっと伸び、田のスーツの内ポケットに札束らしいものを突っ込んだ。早業である。とっさにこれはまずい、と思ったが、すでに大臣室のドアがあいて、次の陳情客が入りかけていた。返すに返せない。

「カネはあって邪魔にならんよ」と田中の低い声を背中に聞きながら、田は辞去するしかなかった−−。帰ってみると、札束は100万円だった。大金である。「あの人、すごいねえ。あれ瞬間芸ですよ。あとに嫌な感じがまったく残らないんだなあ」と田。

「ここだけの話」として聞いたことだが、<戦後政治のひとコマ>である貴重な証言を書くことを、田は許してくれると思う、と毎日新聞の岩見隆夫氏が「近聞遠見」で書いている。

角さんは苦労人だけに上の話でわかるように人情の機微を知り尽くしている。お妾さんもみな満足しているから足を引っ張るようなのは出てこなかった。それどころか、死後懐かしがって、本を著す人も出ている。

「熱情――田中角栄をとりこにした芸者」( 辻 和子著  講談社)というのが2004年出版された。
辻和子さんは、その昔、私が調べた7人の一人だ。深川の花屋の娘に生まれたが父の事業の失敗で8歳のときに神楽坂の芸妓置屋の養女になり 、長じてのち「円弥」の源氏名で神楽坂芸者をしているとき見染められ、終戦の翌年、角栄28歳、彼女19歳のとき一緒になった。角さんが起こした「 田中土建」は飯田橋にあった。神楽坂への入り口みたいな場所で、よく利用していた。

角さんとのあいだに2男1女をもうけた。ほかは短期間で終わったなかで彼女とは最後まで続き、角さんの正月日程「元日は目白、2日は神楽 坂」と同じ比率で暮らした。脳梗塞で倒れたあとは目白から手当てを絶たれ、屋敷あとにマンションを建てて暮らしている。

もっとも本では他にもお妾さんが居たことなど書かれていないが、角さんは辻さんとの間の子どもを認知していて一人は名前も公表している。 「田中京」といい、角さんとの家族写真も公開されて一時マスコミに出たこともある。田中真紀子氏とは姉弟になるのだが目白の本宅に行って も彼女が絶対会おうとはしない人物で、葬儀でも出席を拒絶されている。

この本は聞き書きの形をとっている。角さんを囲んだ食卓風景や子煩悩な様子が描かれるなかで、東京拘置所から保釈されてのち、神楽坂に やってきた角さんが「三木(武夫)にやられた」と漏らしたことや田中派の内情などが垣間見ることができる。竹下登が反旗を翻してつくった「経世会」 (これが角さんの死期を早めたといわれる)の人間模様や、のち竹下派の「七奉行」として君臨することになる 小 渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六、 奥田敬和(いずれも死去)、小沢一郎 、羽田孜 、渡部恒三がこの家に出入りする様子など も書かれている。

この七人の上に金丸信が君臨していて、一段高いところから「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」などと 人物評を加えていたときの政界裏事情の一端が覗けるのだが、生存している3人とも、今では自民党と決別、民主党に草鞋(わら じ)を脱いでいるというのも政界の流れの複雑さを物語っている。民社党も与野党に分かれて吸収され本体は雲散霧消した。夏 草や兵(つわもの)どもが夢の跡、である。

辻和子さんは牛込掘りが見渡せる神楽坂のマンションで暮らしていたが、2008年2月、角さんと同じ脳梗塞で倒れ、これまた同じ逓信病院に入院、 その後足立区の病院に入院していたが2009年2月13日死去。81歳だった。

角さんの汗
シャツはおろかネクタイまで汗まみれの
角さん(1981年)=週刊新潮から=
角さんは脂ぎった顔で扇子をバタバタやるのがトレードマークだった。あれはバセドウ病(心身機能亢進症)によるもので、ものすごく汗をかく。シャツどころかネクタイ、背広まで汗にまみれるほどだった。他にかなり進んだ糖尿病も抱えていた。退陣前の血糖値は200以上もあったという。何かあるとしたら目白の田中邸以外のこともあるな、とリストアップしていたくらいだが、脳梗塞が原因で死亡した。爆弾をいくつも抱えながら、これもトレードマークだった好きなウイスキー、オールドパーを平気で煽り続けたのだから、豪傑ではあった。

角さんの愛人を探し出すということでは、私の取材は中途半端だったようだ。元NHKの政治部記者で園田直外相の秘書官をつとめた渡部亮次郎氏がその辺のことを自身のブログで書いているのでそちらを紹介しておこう。

世間では田中が総辞職したのは立花隆の「田中角栄研究」と思われていますが、違います。あの時の文芸春秋に同じく載った「淋しき越山会の女王」と言 う記事だったのです。後に田中が私に言いました。「とにかく真紀子にあのことで連日ワーワー言われて、それで参ったのだよ」と。

越山会なる角栄後援会の会計責任者、佐藤昭の娘・敦子が角栄との不倫の子であると喝破したのは、この原稿の筆者・児玉隆也が初めてだった。児玉があの原稿を書いた後、私を訪ねてきて「政治家が自分に不利な記事を差止めるため800万円を差し出すことはありますか」と訊かれた。半端な数字だから「それは無いだろう、半端すぎる」と答えた。

児玉によれば光文社の「女性自身」誌デスク在任中、田中の(まだ幹事長)女関係を記事にしようとしたら、著名な作詞家が800万円を差し出し て「止めてくれ」といった。断ったが、社内では「児玉は田中からカネを取って記事を差し止めた」との噂が流され、とうとう社を辞める破目 になった、と言う話だった。 その後、児玉はガンに冒され、それからいくばくも無く、40前に死んだ。片方の立花は有名になったが児玉は死んで、マスコミにのる機会が途絶えたまま 忘れ去られてしまった。(中略)

私は自民党代議士・園田直の招きで彼の外務大臣秘書官になった。福田内閣である。この内閣は三木憎しで固まる田中の支持で出来た政権である。その関係で、かつては仲の良くなか った角栄やその側近とも付き合うようになった。

そのため「あの時、児玉対策にどれほど使ったのか」をマスコミ担当秘書に質すチャンスが来た。そしたら「3000万円を作詞家らに渡したが記事は止まらず、カネも返って来なかった」 との答えを得た。それにしても3000万円がなぜ800万円にしかならなかったのか。おそらく作詞家と相棒の政治評論家(元読売政治記者)が山分けで猫糞(ねこばば)しちまった残りが800万円だったのだろう。

戦後政治史の裏面が単行本で暴かれたのは初めてだろうが「田中角栄失脚」(塩田潮)を読めば作詞家と政治評論家は誰であるか、すぐ推測がつきます。あなたは、この話を聞かされて 、「おふくろさん」を歌えますか。

上で児玉隆也の記事差し止めに暗躍したいろいろな人物が名前を伏せて登場しているが、2018年4月、新聞書評を読んでいたら、その男たちが実名で登場していた。某夜これまた上で紹 介した角栄愛用の料亭「千代新」に集まったのは・・・

昭和45年11月25日。三島由紀夫が森田必勝らとともに東京・市ヶ谷駐屯地で壮絶な割腹自決を遂げ、日本全土に激震が走った日だ。

この晩、総理の座を虎視耽々と狙う田中角栄は、秘書の早坂茂三を伴いながら赤坂の料亭「千代新」の門をくぐっ た。料亭に集まったのは週刊誌『女性自身』編集長、編集長代理の児玉隆也、『月光仮面』で名をはせた作家の川内康範、政治評論家の戸川猪佐武ら 8人の男たちだった。

一見すると実に不思議な面々の集まりだ。これは『女性自身』が田中の愛人であり3人の子をもうけた辻和子を取り上げようとしたことを察知した田中がもった密談の場だった。 田中は自分の子供を守るためなら、「議員を辞めてもいいからつぶす」とまで宣言した。田中に取材したがる編集部に対して、田中は一方的に自分の話を展開し、質問には答えなかった。 結局、 『女性自身』は辻を取り上げることはなかった。

 だが、宿命的な巡り会わせだろうか。この場に居合わせた児玉は、田中が総理となった後、『文芸春秋』に「淋し き越山会の女王」を寄稿し、田中総理退陣の引き金を引くことになる。このとき児玉が取り上げたのは、愛人の辻ではなく、田中の「金庫番」を務める佐藤 昭だった。《産経新聞書評欄「密談の戦後史」(塩田潮著)から》

佐藤昭
越山会の女王、佐藤昭
上の一文にも出てくる 田中角栄元首相の秘書で「越山会の女王」と呼ばれ田中派の金庫番だった、佐藤昭子さんが2010年3月11日、肺がんのため東京都港 区内の病院で死去した。奇しくもこちらも81歳だった。新聞記事には、葬儀は翌日、近親者のみで行われ、喪主は長女敦子さん、とある。角栄との間に出 来た娘であるが、認知はされていなかった。

本名は「佐藤昭(あき)」だがルポライターの児玉隆也によって「越山会の淋しき女王」と書かれたことへの 「ささやかな抵抗」として、著書「私の田中角 栄日記 」(新潮文庫)出版を機に昭和54年に「昭子」と改名している。

1946年衆院選の際、当時17歳の佐藤昭が、新潟県柏崎市内の雑貨店で店番をしていたところ、27歳だった田中角栄が「今度、立候補した田 中です」と店内に入ってきて知り合い、以来田中の選挙活動を手伝うようになった。佐藤昭は新潟県立柏崎高等女学校を経て東京女子専門学校(現、東京家政 大学)に進学するが中退。結婚、離婚。その間2人はしばらく疎遠だったが、結婚して東京に移り住んだ彼女が離婚したことを聞きつけた田中角栄が声をかけ1952年、秘書・愛人となった、ということになっている。

だが、田中番をしたことがある政治評論家、増山榮太郎氏によると(週刊新潮「田中角栄と美人秘書」2015.6月25日号)少し違う。田中角栄は若いころキャバレー遊びがもっぱらで、新橋・土橋にあったキャバレー「ショーボート」に、離婚後柏崎の実家から家出同然で上京した佐藤昭がダンサーとして働いていた。ここに番記者を引き連れて現れてはダンサー全員に1万円のチップを渡していたという。大卒の初任給が2万円そこそこの頃である。二人が出会って間もなくそこをやめて赤坂のマンションに移り住んだ。そこから砂防会館の政調会長秘書室に座るようになったという。

彼女はただの秘書ではなかった。角栄が「おーい、お茶持ってこい」と叫ぶと、女性秘書がお茶盆を来客の前に差し出す。お茶碗の下には封筒が置かれている。相手によって厚みが違う。この厚みまで任されていたのが佐藤昭だった。

佐藤昭
もう少し若いころの佐藤昭
彼女はその後、田中の政治団体、越山会の統括責任者などの要職を歴任。絶大な影響力から「越山会の金庫番」、「越山会の女王」と称された。金庫番としてだけで なく、自由民主党木曜クラブ(田中派)への影響力も強大で当時は田中派の中堅・若手議員であった橋本龍太郎、小渕恵三、羽田孜、小沢一郎らを姉貴分と して面倒をみて全員から「佐藤ママ」と呼ばれて慕われた。

元首相が脳梗塞に倒れた1985年2月以降、娘の田中真紀子議員によって事務所が閉鎖され、早坂茂三らとともに解雇された後は政治団体「政経調査会」を設立 、上記の著書のほか「田中角栄 私が最後に伝えたいこと」など角栄賛美の著作活動のほか多くの田中派議員の面倒を見ていた。

訃報を聞いた小沢一郎民主党幹事長は11日昼、佐藤さんが亡くなった病院に駆けつけ、亡きがらを前に「ママ、長い間お世話になったね」と涙を流していた という。

昭和史の舞台、田中角栄の「目白御殿」全焼

燃える目白御殿
燃える目白御殿
 田中角栄元首相の権力の象徴で、「目白御殿」の異名を持つ東京・目白台の旧田中邸が火災で焼失した。田中氏が健在だった時代には大物政治家や陳情客がひっきりなしに訪れ、昭和政治の舞台となった。往時を知る関係者は突然の出来事に言葉を失った。

2024年1月8日午後3時20分ごろ、「東京都文京区目白台1丁目の田中角栄の家の方向からものすごい煙が出ている」などと110番通報があった。東京消防庁によると、2階建て住宅から出火し、2階建ての住宅延べ約800平方メートルが全焼し、南側の雑木林などが焼けた。

母屋
母屋の外観(1984年=zakzak提供)
警視庁によると、出火当時住宅には角栄氏の長女で元外務大臣の田中真紀子氏(79)と夫の直紀元防衛相(83)の2人がいた。真紀子氏は「ぜんぶまる焦げ。私がお仏壇にお線香をあげて消し忘れた。(火災を)発見したのも私。ガラスが割れる音がして振り返ったら燃えていた」と説明しているという。

角栄
今回燃えた母屋で妻子の写真の前で佇む在りし日の角栄氏(zakzak提供)
 1972年、54歳で戦後最年少(当時)の首相に上り詰めた田中氏。76年に「戦後最大の疑獄」と呼ばれたロッキード事件で逮捕された後も、「目白の闇将軍」と呼ばれ、権勢を振るった。

今回焼失した住宅などからなる旧田中邸には、72〜74年の首相在任期を中心に連日多くの政治家らが足を運び、その様子は「目白詣で」と呼ばれた。田中氏も周囲に「日本の政治は目白で決まるんだ」と豪語したとされる。

86年の衆院選で初当選する前、田中派事務局に勤務し、旧田中邸に出入りしていた自民党の石破茂・元幹事長は8日、読売新聞の取材に、「全国から集まる陳情者が1組5分で面会し、その場で答えが出た。閣僚や党幹部、国会議員、地方の首長は皆、目白に集まった」と振り返った。「庭や応接間が広く、豪華な地方の公民館のようだった。待合室には30〜40人が入れた」と話した。  旧田中邸は数々の歴史の節目を見届けた。田中氏がロッキード事件で東京地検特捜部に逮捕された際、出頭したのは旧田中邸からだった。航空機の機種選定を巡る商社元幹部との面会も旧田中邸で行われたとされ、特捜部の捜索も受けた。

門前払い
元日に挨拶に来た竹下登一行が門前払いされたことも
 87年の元日、後に首相となる自民党の竹下登幹事長があいさつに出向き、玄関先で門前払いされたことでも知られる。田中氏は、85年に竹下氏が「創政会」を旗揚げしたことに激怒し、脳梗塞で倒れ、療養中だった。

 首相在任中の72年に日中国交正常化を成し遂げただけあって、中国要人の来訪も多かった。引退後だが1978年(昭和53年)10月4日にはケ小平副首相が目白台を訪れ、自慢の庭を案内されてはな夫人など家族と記念写真におさまった。また1992年4月には中国共産党の江沢民総書記が訪れた。この時は脳梗塞を発症したあとで泣いているように見える角栄氏の手を握って励ましている。

ケ小平 江沢民
ケ小平副首相(左から2人目)に、私邸の庭を
案内する田中角栄元首相(左端)
目白台の私邸を表敬訪問した中国の江沢民総書記(右)

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その昔、上州戦争というのがあった

この項は当初、「アナスタシアが行く」の「トリビアの泉 アナスタシア編」にあった。正月、八ケ岳の別墅でテレビの駅伝に熱中する家内につきあっているとき、中曽根康弘・元首相親子の話から福田赳夫・元首相の話まで思い出すことが多々あった。なにぶん犬の話なので、政界話はなじまないように思えて、こちらに移した。出だしが駅伝中継からはじまるのはそうした事情からである。

◇ ◇ ◇

私は正月に家内と同じテレビで駅伝を見ても少し違う見方をする。2006年(平成18年)元日行われたその実業団駅伝のスターターとして中曽根弘文・参議院議員(元文相)が登場して号砲を撃っていた。一瞬、永田町から干されて元日早々地元で票稼ぎをしているのか、と思ったが群馬陸上競技協会会長という主催者としてだった。これならわからぬではないが、同時に群馬県における「上州戦争」と言われた長年の中曽根康弘Vs福田赳夫の怨念の対決の歴史を思い浮かべたのだった。

すこし解説しなければわからないかもしれないが、この時代は中選挙区制度(現在は小選挙区比例代表並立制度)だった。自民党派閥から複数の立候補者が出る ところでは共食い状態になり、「戦争」と呼ばれる選挙区が多かった。徳島の「阿波戦争」(三木武夫Vs後藤田正晴)、岡山2区の「六龍戦争」(加藤六月Vs橋本 龍太郎)などだ。

なかでも、徳之島を舞台にした奄美群島区(現在は鹿児島1区)の「ハブとマングースの戦い」(徳田虎雄Vs保岡興治。保徳戦争とも)はすさまじ く、東京から取材記者を特派したが、記者が身の危険を訴えるほどだった。ハブとマングースの死闘を観光の売り物にしていたのでわが社の見出しは表記だったが、一般には もう少しやさしく「保徳(やすとく)戦争」と呼ばれるが、徳之島出身で徳州会病院を運営する医師とエリート議員の対決は利権がらみで島を二分、町長から地方議員、親兄弟まで二派に分かれて、時には札束が舞い、血の雨が降った。

それに比べると「上州戦争」と呼ばれた旧群馬3区(高崎市など。定数4)の争いなどおとなしい方だが、後にいずれも首相になった中曽根康弘、福田赳夫、小渕恵三の3人が争ったところとして有名だ。争うといっても保守王国で自民3、旧社会党1を分け合う無風選挙区、争うのは当落ではなく中曽根と福田のトップ当選だ。県議、市町村長、知事にいたるまでどちらかに分かれて競った。この時の供応ぶりは「福田料亭・中曽根レストラン・小渕飯場」といった。明治生まれの福田は懐石料理、大正生まれの中曽根は西洋料理、昭和生まれで金がない小渕はおにぎりをふるまった、という意味だ。当時でも立派な選挙違反だが警察署長までどちらかについていたから立件されることもなくほぼ野放し状態だった。

バトルは昭和27年からだというから半世紀を超える争いで、両雄は14度戦い、トップ当選は福田の10勝4敗。しかし、平成18年3月両派はついに矛を収めた。小選挙区制で小分けされてバトルの場がなくなったのと、2議席独占を図った参議院群馬選挙区で民主党に1つ取られた上、次の参議院選からさらに定数が1に減らされる選挙区で争っているどころではなくなった。

福田赳夫
平成おじさん小渕恵三
両雄の間に挟まって苦労した小渕恵三は自分を「ビルの谷間のラーメン屋」と謙遜した。両派のどちらにも付かず、ひたすら田中派七奉行として閥務に励んだ。竹下内閣の時には官房長官だったが昭和天皇崩御を受け、記者会見で「新しい元号は『平成』であります」と公表したことから「平成おじさん」として広く知られ、田中真紀子から「凡人」呼ばわりされ、ニューヨーク・タイムズから「冷めたピザ」(ほどの魅力しかない)と形容されたが、84代首相に。電話魔で「ブッチホン」という流行語の主にもなった。

それはともかくとして、上述の元日駅伝のスターターを努めていた中曽根弘文・参議院議員は、先の郵政民営化法案では土壇場で反対を表明し、参院自民党の反対ムードを決定的にした。廃案に追い込まれた小泉首相が「国民に信を問いたい」と衆院解散に打って出ての総選挙の結果、与党が3分の2を占める圧勝で、法案が生き返った。風向きが変わって今度は参議院無用論や参議院定数削減案などが澎湃(ほうはい)として起きてきた。反対した議員の周りでは離党勧告だ除名だと制裁の話が聞こえだした。すると今度は「自民党に残ってやる仕事がある」と賛成票を投じた。親はご承知のとおり大勲位、中曽根康弘元首相で、数々の変節ぶりから「風見鶏」といわれた人だ。

親そっくりの「風見鶏」ぶりについてはいろいろな背景がある。小泉純一郎首相のスタートは福田赳夫元首相の秘書としてだった。「上州戦争」の片方だ。中曽根康弘元首相は「藪枯らし」と揶揄された。たびたび汚職の疑惑を掛けられたが側近を枯らしても自分だけは生き延びたという意味である。田中角栄元首相は中曽根を評して「遠目の富士山」と呼んだという。遠くで眺めている分には姿が良いが、近寄ってみると瓦礫やゴミの山である、との意味だ。政界一寸先は闇。その田中角栄の支持を取り付けて「田中曾根内閣」といわれながらも政権を取った。暮れになると我が家に中曽根事務所から地元の下仁田ネギが届いた。叩きすぎたか「安いネギだけではすき焼きはできない」と陰口をたたいたのが聞こえたか、やがて途絶えた。

この時期、自民党の抗争は「三角大福中」で目まぐるしく動いたが、それ以前に昭和46(1971)年夏、佐藤栄作総理の後継をめぐり勃発(ぼっぱつ)した「角福戦争」がある。福田赳夫という人はその風貌通りお人好しなところがあり、何度も煮え湯を呑まされる場面に遭遇している。このときもそうで、幹事長、大蔵大臣、外務大臣とすいすい上って来た自分が、佐藤栄作総理からすんなり政権譲渡(禅譲)されるものと信じて(実際約束があったとされる)なにもしなかった。

一方の角さんは同じ佐藤陣営ながら、学歴、門閥なし。気配りと現ナマ作戦で這い上がってきただけに着々と工作していた。あくまで「ウワサ」ではあるのだが、本来、福田支持と見られていた重宗雄三参議院議長から当の佐藤総理までその心配りが及んでいたとも。そのせいか、佐藤総理は土壇場で選挙区山口に帰ったまま、約束を問い詰めようとする福田派からの電話にも出ず、政権譲渡の件には口をつぐんだままだった。かくて田中内閣が誕生する。

そのブルドーザー田中角栄内閣も、やがて金脈問題や女性問題を追及され退陣に追い込まれる。椎名悦三郎副総裁の裁定で、少数派の三木武夫総理が「青天の霹靂」で誕生したものの長くはなかった。三木政権は総選挙で惨敗して田中・大平正芳・福田連合による「三木降ろし」のなか倒れる。

昭和51年(1986)11月、福田赳夫氏にやっと出番が回ってきて第67代総理大臣に就任した。しかし、これには角さんがウラで糸を引いた「大福密約」があった。「福田を2年間、総裁にし、大平は幹事長をする。2年後に交替」というもの。立会人は鈴木善幸、園田直の二人。もう1人いた保利茂氏は署名を拒否したという。このとき息子、福田康夫を内閣総理大臣秘書官にもしている。

大平正芳
大平正芳
だが、政権の蜜の味を知ってしまうと欲が出る。2年経ったところで福田が密約の反古を目論む。「世界が福田を求めている」と総裁選出馬を宣言。当然、大平正芳は激怒してこれまた立候補。悪いことに、福田総理は、自分で派閥解消を叫んで全国の党員・党友による総裁予備選を初めて導入していた。全国で密約反故に激怒した田中・大平両派による党員宅の戸別訪問、電話攻勢と福田降ろしの大ローラー作戦が展開された。

福田は再選を疑わなかったから「予備選第2位の候補は国会議員による決選投票を辞退すべきである」とまで主張していた。表立って集票作戦は展開できなかったこともあり、結果は自分が導入した総裁予備選で福田首相が大平正芳・自民党幹事長に敗れる大番狂わせ。世間は驚いたが、ウラではこのような、負けるべくして負ける経緯があったのだ。このときの言葉が「天の声にも、時には変な声もある」という敗退の弁だった。

さわやかな引き際かというとこれが逆で嫌がらせ2回。1度目は組閣を40日も邪魔し(四十日抗争)、2度目は野党の出した不信任案に賛成して衆院を解散させ、衆参同時選挙をやらせた。おかげで大平は極度の過労が引き金となって狭心症(その後心筋梗塞とわかる)で倒れた。大平の所属する派閥でいうと鈴木善幸、宮沢喜一の二人が親分筋なのだが、宮沢は大平を馬鹿にし、大平は善幸を馬鹿にするという関係だったから誰からも支援されず、さみしい最後だった。

福田赳夫
福田赳夫
ところで、福田赳夫は面白い人で、上に紹介した語録のほかにも「昭和元禄」「狂乱物価」「日本経済は全治3年」など造語や警句をぽんぽん口にして新聞社で見出しを担当する整理部を大いに喜ばせてくれた。ひょうひょうとした人柄で人をひきつけるところがあり、わが社の福田番の女性記者は完全に取り込まれて用もないのに日参していたし、カメラマンの一人もまるで清和会(福田派)の行事記録担当というほど派閥内の撮影を一手に引き受けていた。

福田語録で一番有名なのはクアラルンプール事件での「人命は地球より重い」という一言だろう。昭和50年(1975年)8月4日、武装した日本赤軍メンバー5人(奥平純三、日高敏彦、和光晴生ら)がマレーシア・クアラルンプールの米大使館領事部と、ビルの同じ階にあるスウェーデン大使館を占拠、米領事ら50人余りを人質に立てこもり、日本で服役、拘置中の活動家7人の釈放を日本政府に要求した。政府は人質の安全を優先して超法規的措置で釈放を決め、5人(西川純、戸平和夫ら。2人は釈放を拒否)をクアラルンプールに移送、十億円もの土産まで持たせた。 結局、犯人らは日航機でリビアに向け出国、同国政府に投降したが、その後この資金で事件を起こし、犯人はいまだに逃走中だ。テロに対して毅然とした措置が取れなかったケースとして、今では汚点に数えられている。

福田首相は予備選でのまさかの大敗後、いさぎよく本選を辞退したが、その撤退に対し、涙を流しながら「本選に挑むべきだ」と主張したのが福田派の小泉純一郎、森喜朗の二人だった。時巡って、福田の下で悔し涙を流し、怨念を育んだ二人はともに天下を取るが、小泉首相の田中派(その後竹下派→橋本派→津島派)憎し、中曽根派外しは続く。

といっても、その田中派は小泉首相が手を下さずとも自壊していった。嘗ての竹下派の副将軍、当時の最高実力者だった金丸信は福田派(清和会)を継いだ安部晋太郎が死の床についた時、清和会の「四天王」と呼ばれた三塚博、森喜朗、加藤六月、塩川正十郎の4人が不仲なのを見て「馬糞(まぐそ)の川流れ」と評した。求心力がない派閥はすぐばらばらになると言う意味だ。しかし、そう言った金丸本人が東京地検に数十億円の不正蓄財を摘発されて逮捕された。「水に落ちた犬は打て」という政界の鉄則どおり、北朝鮮との補償密約や地元への利益誘導が批判され、傷心のうちに山梨に引きこもったままやがて死んだ。

派閥の方も、日本歯科医師会からの1億円献金無届事件の摘発をきっかけに求心力=集金力の低下が白日の下となり、旧田中派は橋本元首相が辞めたあと領袖もいないというまさにばらばら状態。まさか自分たちが「馬糞」(まぐそ)になるとは思いもしなかったろうが、最後の小泉内閣では入閣ゼロの惨状だった。小泉首相にとって、強いて相手といえる派閥はもう存在しなかった。全部の派閥を「馬糞の川流れ」にしたのだ。

中曽根元首相には”比例区終身一位”が保証されていた(橋本龍太郎元首相から)はずが、小泉首相によりあっさり反故にされた。自民党の比例区に73歳の定年制が導入されたのだ。中曽根元首相は「非礼だ」と怒ったがどうすることもできず、2003年(平成15年)の総選挙では、自民党の比例区からの出馬が出来ず、立候補を断念し引退に追い込まれた。しかし憲法改正を終生の仕事と公言する氏は老骨に鞭打って自民党の新憲法起草委員会の前文小委員会の委員長を務め、自ら前文の筆をとった。戦後社共が「平和憲法護持」を叫んで改正など夢のまた夢だったが、いまや時代は国会議員の7割が憲法改正に賛成という流れになっていた。

「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化をつくり伝え、多くの試練を乗り越えてきた」で始まる美文調の前文素案だったが、自民党の新憲法起草委員会(委員長・森喜朗前首相)全体会議にはかられて出てきた素案からは前文はものの見事に全文が消されていた。こういう情緒的な文章は憲法前文にふさわしくない、と小泉首相が自ら書き換えたともいう。中曽根元首相は「日本の歴史、文化、伝統、国柄が完全に抜け落ちている。無機質な政党官僚の作文になっている」と声を震わせたが、これまた後の祭りだった。息子、中曽根弘文・参議院議員の反乱にはこうした父の屈辱を胸にとどめ続けた伏線があるとされる。

この下りだが、2008年6月9日夕、東京・内幸町のプレスセンタービル10階ホールでの<カーティス米コロンビア大教授と「日本の政治」を語る会>が始まる直前、 先に着いていた発起人の一人、中曽根康弘元首相に、やはり発起人の小泉純一郎元首相が近づき腰をかがめ、右手を差し出したが握手を拒んだ。このときの <小泉の鶴のひと声>の怨念からではないか、と毎日新聞OBの岩見隆夫氏がコラムで書いたことに、小泉元首相から電話があって、「あのコラム、憲法のところは うそだよ。おれは何も関係ない。舛添(要一)君が説明に来たから、『まかせる、みなさんと相談してくれ』と言ったんだ。字句にはいっさい口を出して いない」と言ったという。自民党の新憲法起草委員会委員長だった森喜朗前首相も「それは小泉さんの言うとおりだ」と言ったのであのコラムは訂正する、と書いている。

党の新憲法起草委員会事務局次長だった舛添は中曽根案を拒否した理由について、<あの復古調の前文では、民主党には受け入れられないし、肝心の国民 の合意も得られないことは火を見るより明らかだった>と書いている。(著書「永田町VS霞が関」07年・講談社刊)。小泉元首相がちょん切った、というのは どうやら”冤罪”のようである。


中曽根康弘元首相が死去

戦後歴代5位の首相在任記録を持つ中曽根康弘元首相が令和元年(2019年)11月29日午前7時22分、老衰のため東京都内の病院で死去した。101歳。

ロン・ヤス
日の出山荘でのレーガン米大統領と中曽根康弘首相=昭和58年11月11日
米国のロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス関係」を構築し日米同盟を強化させ、内政では行政改革を中心とする「戦後政治の総決算」を掲げ、電電公社、専売公社、国鉄の「3公社」の民営化を推進した。在任中にNTTとJTを発足させ、国鉄分割民営化法を成立させた。

戦後政治史の中に残した大きな功績は各紙、各書で触れられているので、ここでは氏が残した「名言」「キャッチフレーズ」に焦点をあてた産経の記事を紹介する。、

 死去した中曽根康弘元首相は「政治家は歴史法廷に立つ被告である」「私の心の中には国家がある」「理想や目標を持たない民族は滅びるなど、政界や社会に警鐘を鳴らす名言を多く残した。

 憲法改正をライフワークとしてきた中曽根氏は「国民は国の前途を憂いつつマック憲法迎えたり。我が憲法を打ち立てて国の礎築くべき」などと現行憲法を批判する「憲法改正の歌」を自ら作詞し昭和31年に発表、36年からは「首相と恋人は私が選ぶ」をキャッチフレーズに首相公選制導入の改憲を訴えた。

 首相就任直後の訪米の際、米紙社主との朝食会で「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」と発言したと報道された。中曽根氏は「高い壁を持った大きな船」との発言を「不沈空母」と英訳されたと語ったが、一昨年の外交文書で自ら「不沈空母」と発していたことが判明した。

 61年の施政方針演説では「『戦後政治の総決算』は戦後40年間のひずみや欠陥を是正し、21世紀に備えるものだ」と強調。

 自民党を大勝に導いた同年の衆参同日選では、衆院解散を野党が警戒する中、実施しないふりをして断行した。実は、同年のはじめから「死んだふりでいく」と決意していて、解散をすると「私が死んだふりをしたといわれるが野党は知らないふりをした」と述べ、「死んだふり解散」と言われるようになった。

 平成8年、衆院選が小選挙区比例代表並立制の下で行われると、自民党執行部から比例代表北関東ブロック「終身1位」を保証された。その後、党に「73歳定年制」導入の動きが出ると「わたしは『老兵は死なず、ただ頑張るのみ』だ」(12年)と現役続行に意欲をみせた。15年に小泉純一郎首相から議員引退を求められ、「政治的テロだ」と反発したものの、最終的には衆院選不出馬を表明。「暮れてなほ 命の限り 蝉しぐれ」と心境を詠んだ。


それはさておき、実業団駅伝の翌2日、大手町をスタートする「箱根駅伝」を主催する読売新聞会長の渡邉恒雄氏と中曽根元首相は盟友関係にある。ナベツネと呼ばれ、あるときは横綱審議会委員長として、あるときはライブドアの参入に際してプロ野球オーナー会議のドンとして毒舌でならす。スポーツ紙などでは「老害」の見出しで、若者の敵扱いだが読売グループの天皇といった存在だ。ナベツネが毛嫌いしたライブドアとホリエモン(堀江貴文)は2006年1月、東京地検特捜部に踏み込まれ壊滅への道をたどっている。「はげたかファンドの行く末はこんなもんだ」とまだまだ生涯現役というか「老害現役」というか意気軒昂だ。

中曽根-ナベツネ
中曽根元首相と渡辺恒雄・読売新聞会長
(07年12月22日テレビ画面から)
二人は政治部記者時代からの親交だ。私は別な新聞の記者としてナベツネの凄腕には脱帽したことがある。第2次中曽根内閣のときだったか、各新聞社と も組閣の予想を掲載した。現在の小泉内閣では不可能だがこのときは各派閥から推薦名簿が出るので比較的推測ができた。政治部記者と相談して予想閣僚名 簿を作った。当日になって首相にいろいろな思惑が出てポストが横滑りすることはあるが、入閣者の名前はそう外れない。それでも、夕刻発表された名簿で は小紙のずばりは4、5人といったところだった。だが、この日の読売新聞朝刊と完璧に同じだった。外れたのは1人か2人だ。驚いて、なぜそんなことが できたのか調べた。そうしたら中曽根首相のそばで白紙に組閣名簿を書いていったのはナベツネで中曽根首相はフンフンと言っていただけだというのだった。

知られていないがナベツネはコワモテだけの人ではない。読売の副社長時代くらいだが、月に一回だったか季節ごとだったか読売の競争紙含めて各新聞社、民放、NHKとマス コミ縦断して女性記者ばかりを、彼女たちが好むフランス料理店などに招待していた。正式な名称は忘れたが「ナベツネを囲む会」のようなものを主催して各界の女性記者の意見を 聞いていた。社屋は隣だがわが社の女性記者も招かれていた。当然悪く言うわけはない。

ナベツネ
渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長・主筆
(2012年4月10日産経新聞)
2012年4月、85歳になったネベツネ氏が産経新聞のインタビューに登場した。この時点で、プロ野球巨人軍の人事に介入したとナベツネに反乱して解任された清武英利・前球団代表と法廷闘争の真っ最中など、まだまだ”憎まれ役”現役。こんなことをしゃべっている。

 ――聞きにくい話ですが、産経が実施したアンケートでは「リーダーにしたくない」人物の1位が鳩山由紀夫、2位が菅直人、3位が民主党の小沢一郎で…
 渡辺 4位が渡辺恒雄。悪名は無名に勝るというが、ネガティブ評価もなきゃおかしいですよ。人間には嫉妬もある。僕も何もしないでいればいい人と言われたかもしれないが、  それじゃジャーナリストといえないね。
ナベツネ96
96歳のナベツネ氏
 わたなべ・つねお 大正15年(1926)5月30日東京都生まれ。東大文学部哲学科卒。在学中は日本共産党員、後脱党。昭和25年読売新聞社入社。ワシントン支局長、解説部長、政治部長、論説委員長などを経て平成16年から読売新聞グループ本社会長・主筆。9年から15年まで日本新聞協会会長。13年から15年まで横綱審議委員会委員長。  20年旭日大綬章受章。
 

2023年1月、96歳になったナベツネ氏の写真()を文春オンラインで拝見した。このときの肩書は、「読売新聞グループ代表取締役主筆」。バリバリの現役である。

写真はNHKスペシャルの番組ディレクターだった安井浩一郎氏が書き下ろしたノンフィクション「独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた」 (中公文庫)の紹介記事にあるもので、今も大手町の読売新聞本社にある「主筆室」に通っては戦後政治史を語って止まない矍鑠たる毎日だ。

 
 
【戦後政界の大物の「懐深く」食い込んだナベツネの凄腕】
↑(クリックで「独占告白 渡辺恒雄〜戦後政治はこうして作られた〜』(新潮社)からのナベツネ伝の転載に飛びます。

高校野球は朝日新聞が牛耳っている。春のセンバツは毎日新聞だがこちらはたかがしれている。だが夏の高校野球はこの時期朝日の部数が飛躍的に伸びると言われていた。それほど強力だった。これに対抗すべく各紙知恵を絞る。産経新聞の春の高校バレーもその一環だが思わしくない。同じ理由で読売新聞が力を入れているのが「箱根駅伝」という背景がある。最近日本テレビの視聴率の稼ぎ手としても大きく育った。新聞部数の拡張のために、都道府県駅伝、女子駅伝、実業団駅伝、などが登場したのだ。正月に集中するのは新聞の部数は正月部数で決まるからだ。

上の文章で高校野球での朝日新聞の力を「強力だった」と過去形で書いた。過去の話になりつつあるからだ。公称822万部どころか何十万部という単位で減りつづけているという話も聞こえてくる。部数減が激しいのは中国などへの報道姿勢を嫌われてのことで、社内の販売や広告から文句が出ているともいう。

しかし、夏の部数減の原因は間違いなく「野球学校」のせいだ。八ケ岳のすそを流れる千曲川沿いに近ごろ長野代表としてよく出てくる高校がある。周辺の町では誰も話題にしない学校だ。野球部員に地元出身者は皆無で大阪あたりから引っ張ってきたリトル野球出身者で固められている。オラが町の代表と思われてはいないから盛り上がらない。

私立学校が手っ取り早く志願者を増やす宣伝材料として高校野球に目をつけた。津軽海峡を優勝旗が渡ることは当分なかろうと思われていたのが、かき集めたリトル野球出身者の力でいとも簡単に飛行機で渡っていった。雪のおかげで”野球後進地”の扱いを受け、甲子園でスタンドから声援を受けていた北海道や東北から強豪といわれるチームが出てきた。「出ると負け」だが地元や甲子園で判官びいきを一手に集めるよさがなくなった。野球学校は嫌われるからと校名そのものを「××東」と県立を装った私立も出てきた。「青春の汗だ、純情だ」と新聞が書いたところで、誰もそりゃ違うだろうが、と思っている。代表校のスキャンダルを握っていて直前にぶつけて出場辞退させる手口も出てきた。野球学校で不祥事がないところを探すほうが難しかろう。誰の目にもウラが見え見えだから高校野球そのものがバカらしく見える。

(この項を書いて1年ほどして案の定というか、プロ野球の西武が希望枠予定の選手に裏金を渡していたことが発覚した。希望枠というのは、球団と選手に同意が成立していれば、ドラフトにかけずに球団がアマ選手を獲得できる制度。こんな裏道作っておくのもおかしいが、さらに、早大選手の出身校、岩手県の専大北上高校では指導に当たっていた元教諭と元部員が裏金問題に関与したうえ、学費などを免除する同校の特待生制度が発覚した。高校側はただちに硬式野球部を解散した。一見筋が通っているようだが、高野連との出来レースで、厳正に対処したところは夏の大会までに復帰させるという暗黙の了解の下での行動。事実、その後私立高校の半分に奨学生制度が存在したことが発覚したのになんら手を付けずに終わっている。)

高校野球盛んな頃は多くの会社で優勝予想のトトカルチョの回状が出回った。手を広げすぎて賭博で警察の手入れを受けてニュースになるところもあった。暴力団仕切りの本格的野球賭博もあった。人は負けるのはわかっていても、まず郷里のチームがいる枠から買っていたものだ。いま参加したくともトトカルチョの誘いを聞くこと皆無だ。商売にならないから今では暴力団も相手にしない。郷土愛と表裏一体のところに人の心を掻き立てるものがあるということを朝日新聞と高野連が忘れたことに凋落の原因がある。

朝日の高校野球と同じことが読売の箱根駅伝でも起きている。人種差別と糾弾されるのが嫌だからマスコミ各社表立っては言わないが、なんであんなにケニヤの「走り屋」が多いんだと思っている人は多いはずだ。高校から留学しているという。私などアフリカまで選手を買い付けに行くブローカーがいるのではないかと思っている。走る選手に罪はなかろうが、勝てばよいというライブドア・ホリエモンに懲りたばかりだ。そろそろ学習してもいいころだ。こんなことを野放しにしておくと駅伝もやがて高校野球と同じ道をたどるだろう。先の千曲川沿いの私立高の名前は箱根駅伝の選手紹介でも何回か聞いた。まさか中高一貫校で小学生から人買いはしないだろうから、指導者の努力のおかげと信じたいものだ。

最近では若ものは新聞を読まなくなっている。ニュースはテレビかインターネットという時代になってしまい、購読する人は少ないのが各社の悩みだ。娘夫婦は「ラテ面が欲しいくらいで何にも不自由はない」という。練馬で開業している親戚の医師は「朝日新聞を止めたら精神衛生上快適だ」といっている。日本新聞協会は毎年10月に日本ABC協会( 新聞雑誌部数考査機構)調べの日刊紙の発行部数を公表している。これによると 「1世帯あたり1.04部」の購読となっているが実態はとうに「1」を割り込んでいると思われる。新聞社にいた者として寂しいがこれも世の流れだろう。新聞の必要性はなくならないと信じたいが、部数が多いのをよしとした時代は確実に終わった。

新聞が一部の家庭でしか購読されなくても、いいではないか。必要な人だけに読まれる新聞をつくればいいのだ。身の丈にあったことをする、というのは日本人の昔からの考えだ。我が家では家内が一人熱中している駅伝だが、ニュースの世界に身を置いたものとしてウラを読むと、かくもさまざまな背景が読み取れるのである。

 

◇ ◇ ◇

ひたひたと野球校消滅へ

高校野球が沈没に向かってひた走っていることを上述したが、果たしてその具体例が出てきた。いずれも2015年2月のニュ−ス記事である。

センバツ出場校兵庫県勢ゼロに
春夏の甲子園大会で通算13度の優勝を誇る兵庫は今春のセンバツでは出場かなわず、33年ぶりに「兵庫勢ゼロ」となった。3月21日に開幕する第87回選抜高校野球大会の出場32校 が決まったが、開催地である球児の聖地・甲子園球場のおひざ元、兵庫勢の出場はかなわなかった。センバツの「兵庫勢ゼロ」は昭和52年以来33年ぶりの珍事。春夏の甲子園で通算13度 の優勝を誇る兵庫勢だが、実は近年、「甲子園で勝てなくなっている」と指摘されている。

選考は各都道府県で行われる大会と、それを勝ち抜いたチームが出場する地区大会での成績が重要な選考材料となる。出場枠6校の近畿地区では、地区大会のベスト8以上から選ばれるのが通例と なっている。昨年10月の近畿地区大会では、兵庫勢がいずれも初戦で敗退した。

こうした状況に約30年間にわたって兵庫で高校野球の監督を務めてきた関西学院高野球部の広岡正信監督(60)は「全国的に野球部の強化に取り組む高校が増え、有力な中学生が県外に出て いく『人材輩出県』になっているのが一因だ」と指摘する。高校で甲子園を目指す選手たちの多くは小・中学時代から野球に打ち込んでいる。兵庫県内の中学軟式野球人口は26年度で全国4位 。硬式クラブもボーイズリーグで全国7位と中学生の競技人口は多い。だが、地元の有力選手が県外の高校に進学というと聞こえはいいが、要するに引きぬかれていくのだ。

昨夏の兵庫県大会では162校が出場した。一方、その年の夏の甲子園でベスト4となった敦賀気比の場合、30校の福井県大会を勝ち抜いて甲子園への切符を得ている。実に兵庫の5分の1以 下だ。高校進学後も野球を続ける選手のうち2〜3割が県外の高校へ進むという。「設備や指導者などの環境が同じ条件ならば、高校数が少ない地方が甲子園に出場できる可能性が高いから」と話 し、競争の厳しい兵庫や大阪など都市圏の高校を敬遠するという。

これに加えて、受け入れる地方の高校も野球で名を売り、生徒を集めようとする思惑が働くから陸続として選手は流出する。米メジャーリーグで活躍する兵庫・伊丹出身の田中将大投手(ヤンキ ース)は北海道の駒大苫小牧へ進学した。同じくメジャーリーガーのダルビッシュ投手(レンジャーズ)は大阪・羽曳野出身だが、仙台市の東北に進んだ。右に倣えで陸続と地方に行くのだが、 本場、大阪でも異変が起きている。

野球部「廃部」のPL学園 受験生がたったの「28人」
名門・PL学園野球部が突然、「部員募集停止」を発表したのは2014年秋。春夏合わせて7度の甲子園制覇を誇る名門野球部廃部の背景には学園の母体・パーフェクトリバティー教団の、野球学校 から進学校への転換をはかる意向があるとも言われるがその理由は明かされていない。野球は全く未経験という校長が代行監督を務める異常事態が続き、部員募集を再開する気配はないという。敷 地内に点在する野球部の寮には空室や老朽化が目立ち、短大の校舎同様、取り壊されることがないまま廃墟化している建物も多い。

2月10日、大阪府富田林市にあるPL学園高校の入学試験会場は閑散としていたという。付属中学からの内部進学者を除く今年度の受験者は、国公立コースと理文選修コースを合わせた定員75 人に対し、わずか28人にとどまった。学校関係者からは「数年後には学園がつぶれてしまうことを危惧しています」といった声まであがっている。

 

サイトの亭主の実家はPL学園がすぐそばに見える大阪南郊の南海高野線沿いにあり、夏のPL花火大会など音まで聞こえてきた。小中高とこの地で過ごしたが、自分の母校の府立高校は坂崎がいる 浪商全盛時代とぶち当たって、対戦すれば大敗であった。こんな衰退をたどるとは思う由もなかった。


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感嘆 光市母子殺害事件の本村洋さん

大弁護団に一歩もひけをとらない美しき論理

事件が最高裁から広島高裁に差し戻されてから特に思うことだが、山口県光市で当時18歳の少年に妻子を殺害された本村洋さんには感嘆させられる。いまどき、か くも見事な日本人がいたかとも思う。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの母親、横田早紀江さんと双璧だ。

事件がなければごく普通の人生を送ったであろう人たちが、事件ゆえにやむを得ず舞台に上がり、最初は私的な怒りだったろうことをいつしか公憤にまで昇華させ、 それを表現するのに日本人が昔は持ち合わせていて今は忘れていることだが「静謐で毅然とした態度」でのぞむ。見事な生き方に心を突き動かされる。

本村洋さん
本村洋さん
本村洋さんがテレビに登場するとコメントの時間が長い。マスコミは総じてこの悲劇の人に同情的ということもあるが、理路整然と切れ目なく話すからテレビ局で もついついカットできないのだと思う。新聞記者として活字にする立場から聞いていても、話す内容そのままでほとんど修正や並び替えや加筆は必要ない。話に重複 するところもない。政治家の話を活字にすると、同じことを何べんも繰り返し、冗漫な修飾語を多用し、全体の三分の一以下に縮まるのが普通だ。本村さんが話す 内容にまったく無駄がないのも見事なところだ。

この項は「ブン屋のたわ言」のなかの「気になる裁判用語辞典」のために書きかけた。というのも本村さんが「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私 が自分の手で殺す」と語っていたからだ。ハンムラビ法典に遡るまでもなく、「目には目を、歯には歯を」という言葉は聖書にもある。

また新約聖書「ロマ書」(使徒パウロの手によって書かれたものとみなされている七つの手紙の一つ。「ローマ人への手紙」や「ローマ書」「ロマ書」とも呼ばれる) の一節に「主は言いたもう、復讐するは我にあり」とある。意訳すれば、私的制裁はいけない、因果は応報するのだから神の裁きを待ちなさい、と教えている。 これを現在の刑法に当てはめれば、被害者遺族になりかわって怒り、復讐してくれるのは「法」だということになる。

つまり、個人で復讐することを禁じ、復讐する権利をいったん国家が取り上げ、裁判の上、代わって処罰するということで刑法は成り立っていることを意味する。 本村さんのセリフはその根幹に触れる部分だったので、裁判用語を集めたコーナーで取り上げようとした。

もちろん刑務所を出たところを殺すなど許されないし、できるわけもない。本村さん本人もわかっている。レトリックとして言ったことだが、三段論法で論理的に説明 する弁舌が実に見事だった。彼は法学部ではなく工学部の卒業生だ。にもかかわらず法学者もかくやという論理を展開していた。

いわく「死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、真面目な 人間に生まれ変わったとしても、その生まれ変わった人間の命を残酷にも奪い取るところにある。その非業と残酷とを思い知ることで、奪われた人の命の重さと尊 さを知る。そこに死刑の意義があるのだ」と。

事件の概略

本村洋さんの妻子
本村弥生さんと夕夏ちゃん
1999年4月14日午後2時半頃、当時18歳30日の少年が山口県光市室積沖田4の社宅アパート、本村洋さん(当時23歳)方に排水検査を装って居間に侵入、本村さんの妻弥生さん(当時23歳)を 引き倒し馬乗りになって暴行を加えようとしたが、激しい抵抗を受けたため、殺害した上で強姦の目的を遂げようと頸部を圧迫して窒息死させた。その後、 少年は屍姦し、傍らで泣きやまない長女夕夏ちゃん(当時11ヶ月)を床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。その後、弥生さんの遺体を 押入れに、夕夏ちゃんの遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。 少年は盗んだ金品でゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4月18日に逮捕された。少年はごく近くに住んでいた。

未成年ゆえに山口家庭裁判所に送られ、そこで凶悪事件であることを理由に送検することが決定された。山口地検は山口地裁に起訴、死刑を求刑した。 2000年3月 山口地裁は、「実母が被告人の中学時代に自殺したり、その後実父が年若い外国人女性と再婚して本件の約3か月前には異母弟が生まれるなど、不遇ないし不安定な 面があったことは否定することができない」など情状酌量を認め無期懲役の判決を下した。
検察側は控訴したが2002年3月、広島高裁は、「死刑を選択することも検討すべき重大事件」としつつも「被告人なりの一応の反省の情が芽生えるに至っていると評価した 原判決の判断が誤りとまではいえない」として検察の控訴を棄却した。

一審、二審の流れからは「無期懲役」で決まりか、と思われたが、最高裁で思わぬどんでん返しが待っていた。上告審で最高裁は口頭弁論を実施したのだ。最高裁 は事実審理は行わない。憲法違反かどうかと判例違反がないかだけを見る。この場合、「無期懲役」が妥当かどうかが審理の対象だ。通常、最高裁で口頭弁論が行われ る場合は二審の判決が覆る場合が多く、ここで一気に世間の注目を集めた。

上告審からは 著名な死刑廃止論者である安田好弘弁護士が主任弁護人をつとめたが、口頭弁論の予定日に「裁判員制度の模擬裁判のリハーサルで、丸一日拘束される」のを理由に 弁護人全員が欠席した。この法廷戦術には世論の激しい批判が起こり、本村洋さんは日弁連に対して、安田好弘弁護士と足立修一弁護士を懲戒処分にするよう要望書を 出した。最高裁は全裁判所で初めての適用になる、弁論に出頭し途中も退廷しないよう求める「出頭在廷命令」を出した。

2006年6月20日、最高裁判所は、上告に対し広島高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した。「強姦を遂げるため被害者を殺害して姦淫し、更にいたいけな幼児までも 殺害した各犯行の罪質は甚だ悪質であり、2名の尊い命を奪った結果も極めて重大である。各犯行の動機及び経緯に酌むべき点はみじんもなく、強姦及び殺人の強固 な犯意の下に、何ら落ち度のない被害者らの生命と尊厳を相次いで踏みにじった犯行は、冷酷、残虐にして非人間的な所業であるといわざるを得ない。被告人が犯行 時18歳になって間もない少年であったことは、死刑を選択するかどうかの判断に当たって相応の考慮を払うべき事情ではあるが、死刑を回避すべき決定的な事情であ るとまではいえない」とした。裁判官4名全員一致の意見であった。

2007年5月24日、差し戻し審の第1回公判が開かれたが、新たに21人もの大弁護団を形成した被告側は、「中学1年のときに 自殺した母への人恋しさから被害者に抱きついたもので強姦目的ではない。騒がれたために口をふさごうとして誤って首を 押さえ窒息死させた。死後に遺体を犯した行為は、生をつぎ込み死者を復活させる魔術的な儀式だった。長女は泣きやまないので首にひもをまいてリボンの代わりに 蝶々結びにしたら死んでしまったもので、どちらも殺意はなく、傷害致死罪に当たる」と主張した。

弁護団
安田好弘弁護士(中央)は
21人の弁護団を組織した。
21人の大弁護団の多くは死刑廃止論者の安田好弘弁護士を支援するグループ。1、2審とも少年の犯行については事実関係を争わなかったのに差し戻し審になって新 たに犯行事実そのものを一から事実誤認として争う姿勢で、本村洋さんも「1、2審の7年間はいったい何だったのか。弁護団は社会の関心を集め死刑存廃の議論を しようとしている。この裁判を死刑廃止のプロパガンダに利用しようとするのであれば許しがたい」と発言した。

本村洋さんの生まれは大阪・堺市。小倉にある北九州工業高専に進学し、そこから広島大学工学部に編入、卒業して新日本製鉄に就職した。99年の事件は新婚生活 を送っていた新日鉄の光市の社宅アパートで起きている。妻の弥生さんも大阪の出身。育った地は門司で、そこから福岡の短大まで通っていた。二人は小倉で出会っ て結婚し女児をもうけた。弥生さんは決して恵まれた家庭に育っておらず、家は母子家庭で、仕事で家にいない母親にかわって六歳下の妹と家族の食事を作って成人 した。このささやかな家庭を少年「福田孝行」が蹂躙した。

あえて本名を出したのは、少年法と人権の名の下に加害者は「少年A」とされて警察、検察、裁判を通じて一貫してカーテンの陰に隠し通すのに、被害者側には名前 はもちろん取り調べ内容も知らせないし、知る術もないという現行の法制度に疑問を感じるからだ。現実に少年「福田孝行」は少年法と判例を熟知していた。一審、 二審の流れで「無期懲役」を確信したようだ。しかも日本の「無期懲役」は甘く、早ければ10年もし ないうちに出獄できることを知っていて、友人に後の世論を決定的にすることになった以下の破廉恥な手紙を獄中から出した。

『誰が許し、誰が私を裁くのか・・・。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わりし、法廷の守護者達・・・裁判官、サツ、弁護士、検事達・・・。私を裁ける物は、この世にはおらず・・・。二人は帰ってこないのだから・・・。法廷に出てきてほしいものだ・・・何が神だろう・・・サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!』

 (ドストエフスキー「罪と罰」を引用して)
『選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある』

 (死刑判決を免れ無期懲役判決が下ったとき)
『無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上にひょっこり芽を出す。勝ったと言うべきか負けたと言うべきか?何か心に残るこのモヤ付き・・・。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね・・・昔から傷をつけては逃げ勝っている・・・。まあ兎に角だ。  二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな・・・友と別れ、また出会い、またわかれ・・・(中略) 心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!』

(本村氏に対して)
  『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。 ・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし』
  『知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。 だが、もう勝った。 終始笑うは悪なのが今の世だ。
  ヤクザはツラで逃げ馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ私は環境のせいにして逃げるのだよアケチ君』
 『オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。   そして、勝って修行、出て頭を下げる。 そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。へへ』
 『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』
 『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。
  キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』

     

本村洋さんは地裁の段階から立ちはだかる法律の壁に一人で立ち向かってきた。裁判のときに、法廷へ母子の遺影を抱いて入ろうとしたら、裁判所から持ち込みを拒 否された。法廷の秩序維持とか法廷内での加害者への心理的負担を強いるとかの理由だろう。廷内のことだから裁判長の指揮権下にあり裁量範囲なのだが、なぜか全 国どこの裁判所でも「審理への影響」を理由に認めてこなかった。しかし、被害者からすれば、殺された妻や娘とともに傍聴したい。

傍聴席への遺影の持ち込みは、本村洋さんの訴えが契機となり各地で広がったものだ。これ以後、犯罪被害者の権利確保の観点から遺影持ち込みを認める例が増え ており、最近では長崎県で位牌(いはい)の持ち込みを認めたケースもあった。しかし、法廷外での扱いは旧態依然のままだ。傍聴席については担当裁判長が判断す るが、廷外では最高裁の庁舎管理規則が適用され、各裁判所長が庁舎管理権に基づいて決めているためで、本村さんは今も毎回、遺影を風呂敷に包んで裁判所に入り 、廷内で取り出している。

本村さんの孤独な戦いは続いているが、私はひとつ感動したことがある。平成19年版「犯罪被害者白書」に「遺族の思い 」と題して手記を寄せた(別掲)本村さん が書いていることだが、勤めている会社の上司が言った言葉だ。

今でも忘れられないのが、辞表を提出した時に上司が私に授けてくれた言葉です。

「この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めてもいい。ただ、君は社会人たりなさい。君は特別な経験をした。社会へ対して訴えたいこともあるだろう。でも、労 働も納税もしない人間がいくら社会へ訴えても、それは負け犬の遠吠えだ。だから君は社会人たりなさい。」

私は、この言葉に何度助けられたことでしょう。今になって思えば、私は仕事を通じ社会に関わることで、自尊心が回復し社会人としての自覚も芽生え、その自負 心から少しずつ被害から回復できてきたと思います。

いまどきこういう言葉をかけることができる上司がいる会社というのもすごいと思う。新日鉄という大企業だからこそという見方もできようが、大企業でも大マス コミでもくだらない上司のほうが圧倒的に多い。本村さんは幸い立派な上司に恵まれた。

この裁判のもうひとつの不幸は、死刑廃止論を信奉する弁護士たちのプロパガンダの場として利用されていることだ。最高裁から差し戻されてからは21人の大弁護団 がついた。安田好弘弁護団長と足立修一弁護士は上告審から加わっているが、19人は今回からだ。カッコ内は所属弁護士会。

安田 好弘 (第二東京 )港合同法律事務所
足立 修一 (広島 )足立修一法律事務所
村上 満宏 (愛知) 名古屋法律事務所
新谷 桂(第二東京) リベルテ法律事務所
今枝 仁 (広島) まこと法律事務所(その後解任)
新川 登茂宣 ( 広島) 新川法律事務所
山崎 吉男 (福岡)大濠総合法律事務所天神オフィス
大河内 秀明 (横浜) 横浜シルク法律事務所
小林 修 ( 愛知) 小林修法律事務所
河井 匡秀 (東京 )河井匡秀法律事務所
本田 兆司 (広島) 桂・本田法律事務所
松井 武 (第二東京) 港合同法律事務所
山田 延廣 (広島)
井上 明彦 (広島) 広島法律事務所
北潟谷 仁 (札幌 )北潟谷法律事務所
湯山 孝弘 (第一東京) 湯山法律事務所
舟木 友比古 (仙台) 舟木法律事務所
岩井 信 (第二東京) 優理総合法律事務所
中道 武美 (大阪) 中道法律事務所
岡田 基志 (福岡) 岡田基志法律事務所
田上 剛 (広島) たのうえ法律事務所

安田弁護士は、和歌山カレー事件や耐震強度偽装事件の小嶋進・元ヒューザー社長の弁護など有名な事件を数多く手がけている。オウム事件審理中には、顧問企業の 財産隠しに関して強制執行妨害の疑いで逮捕されたが安田弁護士を支援しようと、2,000人以上の弁護士が集まったという著名人だ。いわゆる「人権派」で死刑反対論 の代表的人物だ。

足立弁護士は、1995年にスピード違反で摘発されたが、「スピード違反を仕向けて摘発する一種のおとり捜査で、計測結果も正確ではない」などと理屈を展開して反則 金の支払いを拒み、道路交通法違反の罪で起訴された経歴の持ち主。

この2人は、上述したように最高裁で06年3月14日に予定されていた上告審弁論に「日弁連の行事のため」といって欠席した。引き伸ばしのための戦術と見られる が、裁判長からは「極めて遺憾」とコメントが出された。

弁護団は21人もいるが一枚岩でもないようで、今枝仁弁護士は被告から解任されている。変わった経歴の持ち主で、高校1年で中退し、家出、大検を取得してバー テンダー、ホストなどの水商売をしながら上智大学法学部を出て司法試験に合格した。広島小1女児殺害事件(ペルー人の被告)1審を担当したこともあるが、光市の 事件の差し戻し審で記者会見の最中、「遺族を傷つけたならおわびしたいが、真実を明らかにするため全力でやってきたことは信じてほしい」と突然泣き崩れ、周り はあっけにとられたことがある。安田弁護士と対立「俺のいうことに反対なら出て行け」と面罵されたとかで、辞任を表明、その直後に撤回していたものの元少年自 らが書いた解任届が弁護団長を通じ送られてきて正式に解任されている。

死刑廃止論に与するのもよい。共産党の下部組織とみなされている青年法律家協会に入っているのもよい(公表はされないが)、リベラルなのも自由だが近頃はいろん な裁判で「人権派弁護士」の強弁が目立つ。そんな中で、21人もの頭脳を集めて組み立てた弁護方針が、1、2審で争わなかった事実関係を覆しての、傷害致死事件 という主張なのだから誰しも首をかしげる。

【福田孝行とその弁護団の主張】

精神的に幼い(12歳程度の)福田が、粘着テープとカッター持って、水道屋の作業服のコスプレの格好で設備点検を装いつつピンポンダッシュして遊んでたところ、前から目をつけていた奥さんの家にたまたま入り込んで、死んだ母ちゃんに似ている感じがしたから母親の体内に回帰したいという、赤子のような心情が高まって何やっても受け入れてくれるよねー、と思って押し倒して抱きしめたら、

なぜか激しく抵抗するものだから首を強く抱きしめたところ動かなくなって、じゃあ胸はだけたら恥ずかしがって起きるかなと思ってブラはずして、それでも起きないからいつ読んだかも買ったかも覚えていない小説に、精子を注入すれば生き返ると書いてあったからマムコにチンコ突っ込んだんだけど、

途中赤ん坊が泣いて俺を嘲っているような感じだったので、あやそうと抱き上げたら2回ほど床に落っことして、それでも泣き止まないから首にちょうちょ結びしたら泣き止んで、それから精子注入の生き返りの儀式をして一発抜いたらすっきりして生き返ったかどうか興味なくして、

部屋の中を見渡すと赤ん坊が死んでいたので、押入れに入れればドラえもんが何とかしてくれるだろうと押入れに押し込んで、ようやくパニックになったから粘着テープと彼女の財布を間違えて持って帰ってしまって財布に入ってた地域振興券で遊んでいただけ。
あと僕をなめないでいただきたい。

ふざけた言い分で、またそれをそのまま法廷に出してきた弁護団も許しがたい。要するに「(主婦殺害後の遺体を犯した行為などについて) 被告は、自分が中学1年のときに自殺した母への人恋しさから被害者に抱きついた。甘えてじゃれようとしたの で強姦目的ではない。騒がれたために口をふさごうとしたら誤って首を押さえ窒息死させた。死後に遺体を犯した行為は、(生き返ってほしいとの思いで)生をつぎ 込み死者を復活させる魔術的な儀式だった。長女は泣きやまないので首にひもをまいてリボンの代わりに蝶々結びにしたら死んでしまった。(遺体を)押し入れに入 れれば、ドラえもんが何とかしてくれると思ったからで、どちらも殺意はなく、(殺人より罪が軽い)傷害致死罪に当たる」というのだ。

弁護団は、ドラえもんとか魔界転生といったフィクションを被告が本気で信じていたと主張することで、被告には判断能力がほとんどなく、責任能力もない、だから 死刑にすべきではない、という方向に誘導しようとしているとしか見えない。

本村さんは閉廷後の会見で「(弁護側の意見書は)怒りを通り越して失笑した。犯罪事実を知っているのは被告だけ。弁護人の主張していることは不可解なことが多 く、にわかに信じがたい」と語った。さらに、弁護団について「死刑廃止を訴えるために遺族だけでなく被告さえ利用している」と断じた。

元検事の大澤孝征弁護士は5月25日「みのもんたの朝ズバ!」(TBS系)で「(同じ)弁護士として恥ずかしい。不可解で不合理な話をして被告の精神がまともでは ない、だから責任能力は少ない、当然死刑は適用すべきではない、という論理につなげるために事実を曲げようとしている。死刑を回避するための捨て身の戦法だ 」などごうごうたる非難が起こったのも当然だ。

私見を述べることを許していただければ、すでに勝負あった、と思っている。弁護団の法廷戦術うんぬんからではなく、裁判の仕組みを知り最高裁の判決理由を読めば 自ずと答えは出る。最高裁は事実審理をしないということはすでに述べた。その上で4人の最高裁判事一致で「強姦を遂げるため被害者を殺害して姦淫し、更にいた いけな幼児までも殺害した罪質は甚だ悪質であり、各犯行の動機及び経緯に酌むべき点はみじんもなく、強姦及び殺人の強固な犯意の下の犯行である」と 犯行事実を全面的に認定している。その上で「死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえない」としているのだ。

ここまではっきり述べるのならば、最高裁は差し戻しなどせず「自判」すべきだったと思う。原裁判所に差し戻さず、原判決を破棄して最高裁判所が自ら判決し、上告審で判決を確定させるこ とを破棄自判というが、過去にいくつもの例がある。なぜ差し戻したかの議論はさておいて、差し戻された広島高裁にできることは限られている。上級審の審理に拘束 されることと、犯行内容を全面的に認定していて、しかも死刑を避けるまでの事情はないとまで断定されていては、あとは 「無期懲役を破棄して死刑判決を下す」以外に選択肢はないのだ。

仮に広島高裁がドラえもんとか魔界転生を認めて傷害致死事件としたらどうなるか。最高裁で認定していることに真っ向から逆らうわけで、これは裁判制度を根底から覆す むちゃくちゃなことになる。広島高裁の判事が弁護団の荒唐無稽な主張(私にはそう思える)を黙って聞いているのは、最後だから言いたいことをみな言わせようという温情ではないか。 2008年4月22日午前10時に判決が下るが、私は弁護側主張は判決理由の中ではほとんど触れられないか、触れたとしてもごく一部になると思っている。

本村洋さんは出演したテレビでこういう言葉を口にした。「こういう悲劇に遭遇したからいろいろな人に出会えて人生を導いてもらえたのだ」と。 裁判に口出しは許されないが、なんとか勝たせてあげたいと思うのは私だけではないと思う。

本村さんの手記「遺族の思い」(平成19年版「犯罪被害者白書」から)
広島高裁判決がでた直後書かれ、雑誌「WILL」に掲載された手記のうち、最後の部分のみ=ZAKZAKから
は別掲。


◇ ◇ ◇

(追記)判決要旨を読んで

2008年4月22日の広島高裁判決は上述した通りで付け加えることもない。違ったのは弁護側の主張は一顧だにされなかろう、としたが、意外や弁護側主張の細部に踏み込んで退けていた。 判決要旨は以前は夕刊に無理しても叩き込んだものだが、いまでは結論だけ紹介している新聞が多い。ところがウエブ時代のありがたいところで、詳細な内容が 掲載されている。興味がある人は読まれるとよいが、完膚なきまでに弁護側主張を退けている。新聞社のサイトのものは削除されたので、趣味でアップしている人のものだが、 「光市母子殺害事件・判決要旨(上)」 「同 判決要旨(下)」

判決後、安田好弘弁護士は「証拠の評価方法は基本的に間違っている。客観的事実から吟味すべきで、高裁が証拠をよく理解していないということが分かった」と言っているが、 例えば解剖所見のくだりでも「被害者の左側頚上部の表皮剥脱Dについて、被告人が被害者にプロレス技であるスリーパーホールドをした際に、被告人着用の作業服の袖口ボタンにより形成され た旨主張している。しかし、表皮剥脱Dは直径が約1.2センチの類円形を呈し境界明瞭である。袖口ボタンおよびその裏側の金具はいずれも円形であるものの、そ の直径は、それぞれ約1.5センチ、約1センチであると認められ、いずれも表皮剥脱Dとは大きさが異なっている」と詳細に検討、「表皮剥脱Dがボタンによって形 成された旨の弁護人の主張は、採用できない。むしろ、被告人の左手親指により形成されたと推認するのが合理的である」と断定しているのがわかる。

活字にするのもはばかられるから各紙取り上げないが、

「被告人は被害者の死亡を確認した後、その乳房を露出させてもてあそび、姦淫行為におよび射精しており、性欲を満たすため姦淫行為に及んだと推認するのが合 理的である。死亡した女性が姦淫により生き返るということ自体、荒唐無稽な発想であって、被告人が実際にこのようなことを思いついたのか、甚だ疑わしい。被告人 が挙げた「魔界転生」という小説では、瀕死(ひんし)の状態にある男性が女性と性交することにより、その女性の胎内に生まれ変わり、この世に出るというのであ って、死亡した女性が姦淫により生き返るというものとは相当異なっている。実際に「魔界転生」を読んだ者であれば、それを誤って記憶するはずがなく、したがっ て、その小説を読んだ記憶から、死んだ女性を生き返らせるために姦淫するという発想が浮かぶこともあり得ない。被害者を姦淫したのは、性欲を満たすためではな く、生き返らせるためであったという被告人の供述は到底信用できない」と、裁判長が実際に本を読んで、これは弁護人に入れ知恵されたものではないかとうかがわ せる部分もある。

また荒唐無稽な主張を始めたのが「被告人が公訴提起後6年半以上もの間、弁護人に対し、新供述で述べるような話をしたことがなかったのに、初めて接見した安田弁 護士らから、事件記録の差し入れを受け、初めて真相が分かったかのように新供述を始めたというのも不自然である」と断じている。

弁護側は即日上告した。フジテレビの安藤キャスターは「また2年くらいかかりますね」と言っていたが、違うと思う。上で述べたように最高裁は事実審理をしない。量刑が適当か、憲法違反があるかだけ みる。憲法違反はないから、あとの理由は量刑だが、これについては差し戻しの時にすでに「無期懲役ではだめだ」とされている。早くに上告棄却の結論が出るだろう。

安田好弘弁護士らは記者会見して「最高裁の判決に忠実に従った極めて不当な判決だ」と口々にまくし立てた。最近気に食わない判決が出るとあらかじめ用意していたのだろうが「不当判決」 と書かれた紙片などを掲げてテレビに見せるのが目立つ。たとえば黒白つけるのにジャンケンで決めようと合意したとする。その結果が出た後このジャンケンは不当だと言うようなものである。 裁判所という土俵で争うことを選んだ以上口にすべきことではなかろう。まして法曹当事者が。

また、この日全テレビが中継したが、法廷から飛び出して息せき切ってカメラの前に立った記者が「元少年は本村さんを見ることなく着席した」と、愚にも付かない旧態依然たる内容のレポートを 繰り返していた。こんなレポートするより最後まで傍聴席に座って判決理由に耳を傾けてはどうだ。そろそろ速報の形を変えるべきだ。翌朝、みのもんたの番組で「判例と言うのは重いのですか」と聞かれて、2人のコメンテーターが「法律に定められてはいない。参考程度」というような ことをしゃべっていたが、とんでもない。判例に即して最高裁の門は開かれるのだ。地裁の判決を判例と言うようなテレビ関係者には裁判報道をもっと勉強しろと言いたい。

それにしてもこの日マイクの前に立ったのは、ほぼ全テレビ局が女性記者だった。新聞も同じで、危険が予測される土地に出ていく女性記者も多い。中継をみて、今や社会部は女性に乗っ取られた なとの感を深くした。経験で言うと女性記者は「一般に」よく勉強する。しかも取材先や官庁に下手に妥協しない。正義感は男より強い。いままで進出が遅れたのは、労働基準法で女性に 深夜労働をさせられなかったためだ。そういえば裁判官にも女性が目立つ。いい傾向だと思う。

2012年(平成24年)2月20日、 最高裁判所第一小法廷で判決公判が開かれ、差し戻し二審判決を支持して被告人の上告を棄却した。弁護団は判決訂正の申し立てを行ったが、3月14日付けで 申し立てを棄却、死刑が確定した。(その後、弁護団がは広島高裁に再審請求を行ったため現在審理中)。被告、「福田孝行」は広島拘置所に収監されている。

最高裁判決の直後、本村洋さんが、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見したときの一問一答がある。
なにかホッとする内容なので ここに掲載して おく。これまでの戦いや死刑制度への思い、ある女性と再婚 して現在ささやかに生活していることなどを率直に語っている。長い裁判だったが、自分のおだやかな生活を早く取り戻してもらいたいと心底思う。

◇ ◇ ◇

最高裁も再審認めず 福田孝行の特別抗告棄却(2020年12月7日)

 山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件で、殺人などの罪で死刑が確定した大月(旧姓福田)孝行死刑囚(39)の再審請求について、最高裁第一小法廷(山口厚裁判長  )は死刑囚の特別抗告を棄却する決定をした。7日付。再審を認めない判断が確定した。

◇ ◇ ◇

上では2012年3月14日、最高裁第一小法廷で弁護団が出した上告審判決訂正の申し立てが棄却され福田孝行の死刑が正式に確定したことまで触れた。 犯行当時18歳1か月での死刑確定は最高裁が把握していた1966年以降の少年事件で最年少だった。確定したと書いたが、その後も弁護団は死刑回避と見られる再審請求を何度 も行ってきた。

●同年10月29日 - 「確定した死刑判決に重大な誤りがある」と広島高裁に再審請求を行い、法医学者や心理学者による鑑定結果などを新証拠として提出。

●2015年10月30日 - 広島高裁が「証拠には新規性がない」と再審請求を棄却。弁護団は同年11月2日付で異議を申し立て。
●2019年(令和元年)11月7日 - 広島高裁が上記の弁護団からの異議申し立てを棄却。弁護団はこれまた同決定を不服として11月11日付で最高裁へ特別抗告。
●この特別抗告に対して最高裁第一小法廷が2020年12月7日下したのが上の記事にある棄却決定だ。

福田孝行
福田孝行、現姓は大月孝行
何度も「死刑確定」という言葉が出てくるのは、死刑執行逃れを狙って弁護団が判決のたびに即再審請求、特別抗告を繰り返しているためで、今後も続くだろうが、 もはや「死刑」の流れは変わらないと思われる。

「福田孝行」が「大月孝行」になったワケ

ところで上記最高裁判決を伝える新聞記事で「福田孝行」の姓が「大月」に変わっていることに奇異を感じた方もいるかと思う。
公判中の2009年に出版された本で「福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽」(増田美智子著)というのがある。実名報道を巡って被告と著者の間で泥沼の 訴訟合戦になった本だが、この中に死刑制度撤廃運動を繰り広げている「大月純子」という女性支援者が登場している。福田孝行はこの人と養子縁組をしたため、現姓が 「大月」になった為である。

大月純子氏は1970年神戸生まれ(2020年で45歳)で1997年から広島在住の日本基督教団牧師。「男女共同参画を考える会ひろしま」共同代表。また在日韓国人問題研 究所、在日本大韓基督教会、在日韓国基督総会全国青年協議会所属というので在日韓国人と見られていて、そのため福田孝行も在日と書かれていたりするが、本当の ところはわからない。

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余は如何にして新聞記者となりしか

突然の文語体だが、なに、内村鑑三の著作「余は如何にして基督教徒となりしか」(原題“How I Become a Christian”)のもじりだ。“How I Become a Journalist”と 並べるのも気がひけるが、高邁な志を立ててこの道に進んだ一瞬があった。

宮崎県に青島という場所がある。ここでの一夜が進路を決めた。
卒業を翌春に控えた夏、北海道・納沙布岬から鹿児島・佐多岬までスクーターで仲間5人と日本縦断の旅に出た。同級生の友人と2人で作った北大探検部(現在も存続しているようだ )のこの夏の事業としてスポンサーを募っての旅行だった。馬術をやっていたので、本当は馬でやりたかった が徒歩、自転車、自動車、そして馬にいたるまですべてに先人がいて、残っているのはスクーターだけと言う事情があった。

探検部初めての事業ということもあって盛りだくさんだった。アフリカへ京大と共同で類人猿の研究班派遣、海上保安庁の船で函館から無人島へ送ってもらい10日間後の迎えの船が来る まで周囲にあるもので自活など、今ならテレビの番組がやりそうな企画だった。みな小生が計画を立てたのだが自分で参加したのはこの縦断旅行だけだった。

上で探検部の活動として無人島での生活班を編成したことを書いた。それから数十年、正確に言えば59年後この「松前小島」がハイライトを浴びた。

松前小島
半世紀のち、脚光を浴びた無人島、松前小島
2017年11月、秋田、新潟佐渡など日本海側に相次いで北 朝鮮の漁船が漂着、同時に多くの遺体が打ち上げられる事件があった。その中で北海道松前町沖の無人島、松前小島にイカ釣りの漁船1隻がたどり着き、10人が上陸していたことが第1管区海上保安本部(小樽)で確認された。

海難事故にしては異常な多さだ。11月に北海道から青森、秋田、山形、石川の日本海側で漂流、漂着した北朝鮮の漁船は64件、18人が遺体で見つかり42人が生存していて保護された。12月に入っても相次ぎその数はさらに増えると見込まれる。食糧難と外貨不足の北朝鮮で金正恩朝鮮労働党委員長が漁民を荒海の日本海に追い立てていることが遭難多発の原因だ。

松前小島に上陸した漁民たちは「出漁中だった約1カ月前に船のかじが故障し、漂流していた。流されてきて島を見つけた。上陸しないと死ぬと思った」と話した。保護された10人はいったん長崎の収容所に移動して中国経由で北朝鮮に送還される運びだが、捜査で明らかになったのは、松前小島には夏の間だけコンブ漁で滞在するため小屋があるがそこからテレビ、冷蔵庫、オートバイ、炊飯器などが持ち出されていて、巡視船が近寄ったとき海上に投棄している姿が確認されていたという。島にある灯台のソーラーパネルも3,4枚持ち去られていた。

極貧国家、北朝鮮漁民が日本のEEZにある大和堆に密漁にきて、荒天で多くが転覆、流された。その一部の漁民による略奪行為だから、送還前に北から賠償金を取るべきだと思うが、サイトの亭主は、そのことより「松前小島」の航空写真に目が釘付けになった。

無人島だったこの島に北大探検部員が上陸したのは昭和37年である。上述のように自分は上陸しなかったが下調べである程度は島のことは把握していた。現在のような立派な漁港はなくて、簡単な船着き場くらいだった。崖を這い上るくらいの感じだったが、オートバイを使うほどの道が作られているとは驚きだ。発電機なのだろうが、炊飯器やテレビもあるとはずいぶん「進化」したものだ。当時も灯台は無人だったと思うが、ソーラーパネルで発電する仕組みとは大変な進歩である。

探検部員には非常用に少しのコメとマッチは持たせたが、あとは魚を釣ってその辺の海草やウニ、貝で自活することを目指したものである。北朝鮮の漁民もそのくらいのことはしてもよかったのではないか。上陸してイージーに盗みまくっていくとはろくでもない国民だ。

安孫子中学
安孫子中学では全校生徒が並んで出迎えてくれた
それはともかく、本題に戻るが、この「日本縦断スクーターの旅」の目的は、北大学長から千葉県の我孫子中学の生徒たちへの感謝状を届けることと、北海道知事から鹿児島県知事への挨拶状を伝達すること、途中、疲労度をフリッカーテストで計測して医学部に提出するための毎日のデータ集めというものもあった。我孫子中学にわざわざ立ち寄ったのは、当時、教科書で「Boys, be Ambitious」を知った生徒たちが、北大構内に計画されていたクラーク会館建設資金にと寄付を届けてくれた。これを受けて、大学側からのお礼の感謝状を持参していた。下で当時の新聞記事を紹介したが植樹されたポプラの苗木が写っている。我々が持参したと思ったが、よく考えると暑いさなか生木を積んで走ったのでは、枯れてしまうだろう。先に大学当局が送り届けていて、写真にあるのはそれを植樹したあとだと思われる。


安孫子中学
安孫子中学訪問を伝える毎日新聞の記事と記念植樹の写真
2017年その時の旅の記録アルバムが出てきた。安孫子中学では校長先生はじめ全校生徒と教員、父兄が出迎えてくれた。学校にテントを張って6人が泊まったのだが、校長先生には夕食会まで開いてもらったと、添付の毎日新聞(後援してくれていた)の県版の切り抜きにある。写真でセレモニーの後、生徒代表と握手しているのが私である。写真にある植樹されたばかりのポプラの若木も、いまでは巨木になっているのであろう。

スクーターは富士重工、ガソリンは三菱石油から現物支給。毎日新聞、武田薬品からいくばくかの支援金を得て南へ南へ走った。当時青函トンネルの試掘坑を掘っ ているときで、津軽海峡は国鉄の好意で北海道側から竜飛岬まで作業船で渡してもらった。

「竜飛岬」は石川さゆりが歌い、今では押しも押されもせぬ名曲になった「津軽海峡・冬景色」(作詞:阿久悠 、作曲:三木たかし)の2番に登場する。この歌では「たっぴみさき」と歌っているが、正しくは「たっぴざき」と読む。当時は読めなかった。作詞の阿久が音節 (syllable)を合わせるために「みさき」にしたものだろうが、今では現地でも「みさき」派が多くなったそうだ。

  「津軽海峡冬景色」
1 上野発の夜行列車 おりた時から
  青森駅は 雪の中
   北へ帰る人の群れは 誰も無口で
  海鳴りだけを きいている
  私もひとり 連絡船に乗り
  こごえそうな鴎見つめ
  泣いていました
  ああ 津軽海峡 冬景色

 2 ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
  見知らぬ人が 指をさす
  息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
  はるかにかすみ 見えるだけ
  さよならあなた 私は帰ります
  風の音が胸をゆする
  泣けとばかりに
  ああ 津軽海峡 冬景色

    さよならあなた 私は帰ります
  風の音が胸をゆする
  泣けとばかりに
  ああ 津軽海峡 冬景色 

 
【「津軽海峡・冬景色」三連符と透明な高音が生んだ名曲】
↑(クリックで「この歌ができた背景を語る石川さゆりへのロングインタビュー」=産経新聞「話の肖像画」から転載=に飛びます。

今では竜飛岬には歌碑まで立っているそうだが、私が小船で渡ったのは昭和37年の7月のことである。歌ができたのは昭和52年頃だからずっと後の 話なのだが、なにか当時を歌っているような気分になる。当時の青函連絡船は1番の歌詞にあるとおりだった。、

青森駅
昭和30年代の青森駅と連絡船乗り場。3つの長い屋根が青森駅のホームで
列車から降りると右上に見える青函連絡船まで先を 争って走った。
このくだりを聞くと情景が浮かんでくるのだが、駅の長いプラットホームを乗船名簿を握り締めて連絡線の桟橋目指して小走りに走ったものだ。船底の三等船室(畳敷)の壁際のスペースを取るために走ったのである。歌われた連絡船風景は今では消えた。それというのも、自分が作業船で渡してもらった海峡の下に掘られたトンネルのおかげなのだが、当時の荒々しい竜飛岬の情景しか記憶に残っていない。津軽半島を青森目指して走っているとき道に迷った。 通りがかりのおばさんに道を聞いたが津軽弁の訛りを聞きとれなくて結局、右に行くのか左なのかわからなかった。

私の日本列島縦断旅行は津軽半島からは主に太平洋側を南下、紀伊半島を一周して山陽路を走り、九州からは大分経由で佐多岬を目指した。青島付近に差し掛かったのは8月中旬だった。 その日は大学の演習林の管理棟のようなところに一夜の宿を求めた。鹿児島大学だったような記憶があるのだが現在、ここに大学の付属演習林はないようだ。小さい演習 林だったから処分されたのか、それとも他の大学の記憶違いかわからないが、ここの管理人を兼ねた教官が私たち6人の宿を提供してくれた。夫人は鹿児島の病院に入院 中とかで、小学生くらいの女の子と二人でここで夏休みを過ごしていた。

当時サッポロビールの大きなジョッキ型をした缶入り生ビールが発売されたばかりで、これを数本娘さんに買いに行かせて歓待してくれた。電気冷蔵庫など普及していない時代 で、氷水で冷やしたのを飲みながら、人生如何に生きるべきかなど青春論を語って夜が更けた。

目の前は小さい入り江ですぐ前に小島が浮かんでいた。砂浜に8人が寝っころがって星空を眺めながら話した。そのうち目の前4,50メートル先にある小島に泳い で渡ろうと言い出すものがいて、道中何度か泳ぐ機会があり持参していた海水パンツに履き替えようとした。そうしたらこの教官先生が怒ったのだ。

「君たちは自然に対し失礼だろう。自然に抱かれようとするなら素っ裸で泳げ」というのだ。率先して作務衣のようなものを脱いで海に入った。私たちも全員それに したがって小島に向かって泳いだ。先を泳ぐ者の頭が月の光の下、逆光で一つ二つシルエットに浮かび、水面に浮き沈みするのとかすかな抜き手の音がするだけの静かな 世界だった。

水着一枚のことだが不思議な感覚だった。魚に食いつかれるのではないかという気がしないでもなかったが、自然の中に入ると言うのはこういうことなのかもしれな いとも思えた。水底に吸い込まれるかも知れないという恐怖もあったが、それでもかまわないとさえ思えた。

素っ裸のまま浜辺に並んでまた話をした。君たちは私より若い。しかし人生の中ではそんなもの泡沫(うたかた)の浮いては消える泡(あぶく)ほどの差だ。君たちは 今考えないだろうが、私も君たちもやがて死んでいく。そのとき、これは俺がやった仕事だというものをひとつだけ思い浮かべられる人生を送れ。そう思って俺は生きて いる。というようなことだった。

私はこのころ太平洋を渡ってアラスカ石油かアラスカパルプに就職したいと考えていた。日本の将来の資源不足を考えてだったが、この年は採用予定がないという通 知をアメリカからもらってこの旅に出ていた。理科系でもないのに日本の資源を心配したのは、一人の先輩の生き方に強烈な影響を受けていた。その人は教授の推薦で 大手の商社に就職が決まっていたが、突然断わって営林署に入った。日本はやがてパルプ資源が底をつく。日本の山林には無尽蔵に笹がある。これからパルプが作れれば 輸入しなくてすむ、というのが理由だった。

先輩の壮大な夢に圧倒されて、自分もパルプか石油の先人になろうとしたのだが、この浜辺の一夜で唐突に新聞記者になろうと決心した。

スポンサーになっていた武田薬品からダンボール一箱分のグロンサンガムの提供を受けていた。途中折をみてはあちこちでこのガムを配っていた。だが、ガムの食べ 方を知らない人がいる土地が2箇所あった。当時日本のチベットと呼ばれた岩手の山の中で道を聞いた時、暗い土間の後ろにいた若い女性と、この青島で一夜の宿を快諾 してくれた大学の演習林までの道案内に立った子どもたちだった。どちらも一番外側の紙ははがすが中の銀紙ごと口にいれるのだ。日本中がまだ貧乏だった。

このころ東京は山谷、大阪は釜が崎で労務者の暴動が頻発していた。新聞には彼らの要求内容、仕事よこせという叫びと仕事の賃金をピンはねする手配師のことが出て いた。でも要求することもできない人たちがいるのは旅の途中でいやというほど見聞きした。浜辺の素っ裸の一夜はこういう人たちの代弁者になりたい、と思った。

鹿児島県知事室で大木を輪切りにした机を見せられた。西南の役で食い込んだ鉄砲の跡が深々と残るテーブルで記念写真を撮り、各自焼酎の一升瓶を土産にもらった。 9月に入ったばかりだったが大学に戻り学生課の求人広告のビラを見に行った。当時は今と違って就職活動は4年生になっての夏がピークだった。その夏休みに こちらは日本縦断旅行をしている。あらかたの企業の試験は終わっていた。

今では就職活動は「就活」(しゅうかつ)というらしいが1年以上前から企業回りをするという。やりすぎだと思うが、当時も就職試験が早くなる一方なのが問題に なっていた。世論に敏感なマスコミとなると「青田刈り」の批判を恐れてか、他よりやや遅かったがそれでも9月ともなるとNHKの試験は3日後で間に合わなかったし、 2つの新聞社は2週間後に迫っていた。 学生課で借りたペンで応募票を書いた。ふたたび上京して試験を受けた。2社とも合格通知を受けてうち1社に決めた。あの浜辺の一夜から1か月ほどたっていた。

永井荷風はまだ職につかなかったころ「自分は将来文筆では衣食できない、自活すべく新聞記者になるほかないかもしれない。いや事によったら泥棒 にはなっても新聞記者だけにはなるまい。私はまだ正義と人道とを商品にして売るほどの悪徳には馴れていない」と書いている(「新帰朝者日記」)という。

山本夏彦の著書に、今も私が心に留めている文章がある。少し長いが今も通じる内容なので紹介する。

黒岩涙香の「萬朝報」のことは旧著のなかに書きましたが、明治の一流新聞で、はじめ醜聞で売出しました。「蓄妾実例」と題して妾を持っている各界名士の私行 をあばきました。妾を持てない読者は喜び、妾を持つ名士は恐れ、妾を持たないけれど持つ力のある人はこの新聞と涙香を憎みました。涙香は醜聞を赤い紙で刷り ましたので、世間はこれを赤新聞と呼びました。涙香は天才的ジャーナリストで、ほかに美人投票、百人一首大会などたて続けに企画し、いずれも成功しました。
(中略)

こうして萬朝報は時事や朝日を凌ぐ新聞になりましたが、それでも赤新聞であった過去を拭い去ることは出来ません。新聞記者の社会的地位は戦前までは低く、貸家 があっても貸してくれないほどでした。かげでは「羽織ゴロ」と呼ばれていました。口では立派なことを言っているが、何をしているか知れたものではない、紋付羽 織を着たゴロツキだというほどのことで、その恐れられることいまの週刊誌に似ていました。週刊誌は「押売と週刊誌お断り」と言われることがあるそうで、それだ からいいのだと私は書いたことがあります。

大新聞はいま正義の権化になって、やましいところはひとつもなくなってしまいました。ついこの間まで羽織ゴロだったことを忘れてしまいました。むかしの新聞記 者は心中ひそかに恥じていました。自分はやましくなくても、自分の仲間、同業者がやましいことをしているなら恥じないわけにはいかないと、みな内心忸怩(じくじ )としていました。いまはしません。忸怩としなくなると、人はみな増長すること新聞記者に限りません。つまり人は潔白になってはいけないのです。社員一同潔白 だと思い込んでしまうと、自分の言うことに間違いはないと思うようになるからです。
(中略)

新聞は羽織ゴロのむかしを忘れたから、いまのようになったのです。自分はいつも正しいと思うようになったのです。そして世論を操作し、読者を愚弄するように なったのです。六〇年安保のとき新聞は岸を倒せ殺せと言わんばかりの紙面をつくり、その直後に暴力はやめましょうと五社(?)連合のアピールを出して世論を鎮 めました。これが愚弄でなくて何でしょう。
(「つかぬことを言う」山本夏彦著:中公文庫)

人間(じんかん)夢の如く40年たった。死んでいくとき、これは俺の仕事だというものがあるかと言われると忸怩たるものがあるが、新聞記者になってよかった、と思いながら青島の一夜を思い浮かべ、井伏鱒二の「サヨ ナラ」ダケガ人生ダ、をつぶやけそうだ。


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稀代のワルか、冤罪のヒーローか               「ロス疑惑」三浦和義の自殺

三浦和義
ロスに護送された三浦和義。このあと留置場で自殺した。
左はロス市警未解決事件捜査班のリック・ジャクソン刑事。
2008年10月10日、米ロサンゼルス銃撃事件(1981)で米自治領サイパンで逮捕されたのちロサンゼルスに移送され、留置場に入れられたばかりの三浦和義 (61)が自殺した。このニュースを私は八ヶ岳の標高1760メートルの我が山墅で聞いた。周りに誰もいないところなのに声を上げて驚いた。

自殺のことを漢語で「自裁」という。こういう言い方をするメディアや評論家はいないとは思うが、彼は自分の来し方行く末を考えて、文字通り己で裁決 を下して死んでいったのだと思う。当時、ニュース部門の取材最前線にいたが、妙な因縁でロス疑惑の発生以前のまだ「美談の主」のときから疑惑真っ只中、さらに その後の法廷闘争にいたるまで、すぐ傍で彼を見ていた。挙句に彼が原告、私が被告という立場で東京拘置所で対面したこともある。

えんえんと付き合ったメディア側の一人として、彼は上述のような理由で達観して自らの人生に決着をつけたと受け止めた方がいいと思うのだ。劇場型犯罪の主人公は今、にんま りしているのではないか、最後までマスコミを振り回してやった、と。

この事件は東京地裁でいったんは「無期懲役」の判決が出た。しかし東京高裁では他の事件から推認されることや心証といった状況証拠は勘案されず、本件の銃撃事件 で直接証拠が乏しい点ばかり強調されてひっくり返った。もちろん法廷に提出されたことだけで判断されるのが裁判というものだ。だが、日本にはない共謀罪という法理論で裁かれようとしていただけに この結果を見てみたかったという思いが強い。おりしも2009年から裁判員制度がスタートする。裁判員という「一般人の目線」が 重用されるわけで、もしこのケースに当てはめると、状況証拠の積み重ねがもうすこし採用され、結果は変わっていたのではないか、とも思わせられる。

この事件は日本の犯罪史上、巷間長く語り継がれるケースだと思うので、いささか関わりをもった者として少し書き残しておこうと思う。

◇ ◇ ◇

ロス郡検視局によると、ロス市警の留置場で発見されたとき、2段ベッドの骨組み上部にサイパンから着てきた濃い色のシャツを結び付け、首を吊ってい たという。2段ベッドの高さは彼の背丈(181センチ)より低い約1.2メートル。複数の人間を収容できる監房だが当時は留置されていたのは彼一人だけだった。

搬送病院
搬送され死亡が確認された
南カリフォルニア大付属病院
ここはトラブルが予想されない模範的な収容者が入る区画で、広さは約10平方メートル。入り口近くにシングルベッドが1つ、奥に洗面台と便器が設置 されている。生存が最後に確認されたのは現地時間10日午後9時36分ごろ。約7分後の43分、首を吊っているのを看守が発見、午後10時(日本時間11日 午後2時)24分に搬送先の南カリフォルニア大付属病院で医師が死亡を確認した。

代理人のマーク・ゲラゴス弁護士は、弁護側が独自に行った検視を担当した病理学者が、死因は自殺ではなく他殺とみられると結論付けたことを明らか にし、遺族もはっきりするまではと遺体の引取りを拒否していた。しかし、ロス市警は「自殺以外の証拠はまったくない」と突っぱね、遺族側も引取り を決め、ロスで荼毘(だび)に付され、黒い服に身を包んだ良枝夫人が遺骨を抱いて日本時間の25日夕方、成田空港に帰った。

ロス郡地裁は自殺から4日後、早くも検察側の訴追取り下げ請求を認める決定をし、米国での刑事司法手続きは法的には完全に終結した。

事件の概要は別にまとめたが、最初はアメリカで理不尽な目にあった青年実業家の妻を思う「美談」として夕刊フジに取り上げられた。私は発生当初はこ のタブロイド紙のデスク、後半は報道部長、三浦が起こした裁判で社が被告になったときは、産経新聞編集局次長で編集責任者として法廷に立った。 長く三浦をめぐる報道の渦中にいたため折々の取材の内容や登場人物を見聞きしていた。次で紹介する一文に書かれているが、一美さんが記念品の スカーフを受け取りに編集局に現れたとき、たまたま居合わせて渡したこともある。

上述のように、ロス疑惑は「美談」から始まったが、最初に報じたのは夕刊フジだった。その経緯は、夕刊フジ創刊のとき東西本社の編集局から集まっ た新聞記者たちの情熱をまとめた「夕刊フジの挑戦」(馬見塚達雄著 阪急コミュニケーションズ発行 2004年)に掲載されている。事件当時、馬見塚氏 は私の上司で編集局長だった。ロス疑惑のくだりを抜粋する。

ロス疑惑は「美談」で幕をあけた

1981年(昭和56年)のクリスマスイブ、12月24日午後7時、夕刊フジ編集局の一台の電話がなった。電話機を取ったのは報道部記者の盆子原和哉である。 電話の主は名前を名乗らないまま、いきなりこう切り出した。

「もしもし、あのぅ、11月18日にロサンゼルスで出張中の日本人夫婦が強盗に撃たれて、奥さんが植物人間になった事件をおぼえていますか。ぼくはあ のご主人、三浦和義君の学生時代の友人で、彼を励ます会をやったんですが、三浦が悲憤慷慨のあまり、犯人に復讐するといってるんですよ。『自分の力 で必ず犯人を探し出して殺す。ロスの新聞に懸賞金2万ドルで情報を求める広告を出し、私立探偵も雇う。すでに米国での拳銃使用許可もすませた』とい ってます。彼は行動力もあり、こうと思ったらかならずやりぬく男です」

こう一気にしゃべると、一方的にプツンと電話を切った。

三浦夫妻
三浦和義と一美さんの結婚式。
写真の奥付から夕刊フジ東京から
大阪への電送写真であることがわかる。
盆子原がデスクにこの奇妙なタレ込みを報告すると、「とにかくその三浦という男に会ってみようじゃないか」ということで、翌日、東京・神宮前の 彼が経営する家具、ファッション製品の輸入・販売業『フルハムロード』前の喫茶店で三浦と会った。まず、アレッと思ったのは、しゃれた若者ファッ ションにサングラスをかけ、松葉杖姿であらわれたこと。

それ以上に妙だったのが、声や話しぶりが前夜の電話の主そっくりだったことと、時おり感情を込めて嗚咽するのが違和感を感じさせたことだった。

ただ、三浦が語る事件の状況、ロス市警の不誠実な捜査、ロス市民の冷淡さなど、実情を知らない盆子原には真に迫っていたし、こんな人もいるんだなあ と、なかば感心しながら記事をまとめ、翌日の夕刊フジ一面を『植物人間の妻よ敵は討つ』という見出しで飾った。


そのあと、堰を切ったように三浦の美談報道がはじまり、翌82年1月20日、その妻・一美が米軍機で帰国、神奈川県の東海大病院にヘリコプターで運ばれ、 それを三浦が発煙筒をかざしながら誘導するという派手なパフォーマンスでクライマックスに達した。

ヘリで搬送
米軍ヘリで東海大病院に搬送された一美さんに
付き添う三浦(19821.20)
一美さんに付き添う
東海大病院で人事不省の一美さんに
声をかける姿をマスコミに撮影させる三浦。
服装が同じなので左の写真と同じ日と思われる。

一美は結局、意識がもどらないままその年11月に死亡、三浦の「ロス美談」も人々の記憶から消えていた84年1月、週刊文春が「疑惑の銃弾」という短期 集中連載で、事件の不自然さ、裏に巨額の保険金がからんでいること、三浦の過去に不透明な出来事が多すぎることなどを指摘して、ここに美談から 一八〇度ひっくりかえった「ロス疑惑」報道がはじまった。

その後の疑惑報道は1年9ヵ月後に、三浦が銃撃事件の前に女優を使って一美を襲わせた殺人未遂容疑で警視庁に逮捕、起訴され(この件では有罪が確定 、服役済み)、その後、本件の銃撃事件でも起訴され、公判がはじまってもなお、延々とつづくのだが、このへんはあまりにも知られているので、報じ られなかったり、あまり知られていないエピソードを紹介したい。

三浦は、週刊文春が「疑惑の銃弾」を掲載するとすぐに、盆子原に電話をかけてきた。最初に美談に仕立ててくれた”恩人”で自分の味方だと思っていた のかどうかはわからないが、以前、友人と名乗った男がかけてきた電話の口調と同じような調子で、一方的にしゃべった。

「あの記事は魔女裁判です。推理小説の世界だ。悪ばかりたくらんでいる男がこの十年間、一流の百貨店を相手に商売をして、不信をもたれずにやって これるとおもいますか」
「どうして報道関係者は事実を確認して、論理的に書いてくれないんでしょうね。清美ちゃん(死亡した一美の双子の妹)が言った事は載っても、ぼくが 言ったことは何一つ載らない。ぼくが東海大学病院に寄付したことなんてことはまったく無視している」
「二年前、マスコミはよってたかってぼくを”美談のひと”にしたわけでしょう。なのに今度はなんですか」
「ぼくも文春に友達がいるので内部事情を調べてもらったんですが、ある社員が週刊文春の担当デスクに、あの記事は根拠があるのかと聞いたら、それは まったくないと答えたそうです」

マスコミが美談に仕立てたというけど、自分で売り込んできたんじゃないか。文春に友達がいるというけど、もともとあなたには本当の友人なんかいな いんじゃあないの、といいいたところをぐっとこらえて、聞くだけ聞いておくことにしたという。

じつは、三浦と夕刊フジをめぐる因縁は、彼の”友人”がタレ込んできて美談の火付け役になったということだけではなかった。銃撃事件からさかのぼる 五年前の1977年2月8日発行の夕刊フジの「アイドルストリート」という写真コラム欄に一美が偶然登場していたのだ。

この欄は、街中で見かけた美人を本人の了解を得てスナップ撮影し、本人のコメントをそえて紙面をかざってもらうという読者参加の欄で、公園の一隅に すらっとしたパンタロン姿で立ち止まる当時23歳のOLだった一美は、「私、妹と双子なの。髪型も同じなので、ちょっと区別がつかないわね」などと しゃべっている。

佐々木夫妻
佐々木良次・康子夫妻(1985.9.12)
当時は独身で姓も違っていたし、美談報道のときも、夕刊フジではだれひとり気づかなかったのだが、盆子原が川崎市の一美の実家を取材したとき、両 親からそのときの切抜きを見せられてわかった。このとき両親は、《植物人間の妻よ敵は討つ》という夕刊フジの見出しを指しながら、「人間は人間で あって植物ではない。この見出しをみるたびに私たちは余計に悲しみをつのらせる。これからも植物人間と書くのなら取材には応じられない」と強い 口調で抗議をした。

「たしかに、肉親の情けに対する配慮に欠けていたと反省してお詫びしたんだが、そういわれてとてもひっかかったことがあった」と盆子原。というのは 「最初に三浦を取材したとき、彼は一美のことを”植物人間”と連発していた。記事や見出しもそれにつられる部分があったのだが、だとすると、三浦 自身の心情はどうだったのだろう、というわだかまりだった。

もう一つ、夕刊フジと三浦との奇妙な因縁がある。彼の著書だったか記事だったかに、若いころ、昼間は別の職場で働いたあと、産経新聞の社員食堂で深 夜まで皿洗いなどのアルバイトをし、仮眠をとったあと、朝食に支給されるパンと牛乳をつめこみながらまた昼間の職場に出勤するという、文字通り 二十四時間働きづめのモーレツ人間だったということが書かれていた。

社員食堂はそのころ、夕刊フジと同じ二階のフロアにあったから、「ひょっとするとヤッコさん、それが頭に残っていたから、真っ先に接触しようと考 えたのかな」と勝手に想像し、ある種の親近感すらおぼえていた。しかし、現実はそんな甘いものではなかった。疑惑報道がピークのころは、夕刊フジ もずいぶん彼の痛いところをつく記事や外部寄稿を掲載したのだが、その一部を名誉毀損などで告訴されて、夕刊フジが敗訴するケースも少なくなかっ たのだ。

結局、「銃撃事件」では最高裁で無罪になるのだが、それにしても、徹頭徹尾「わからない」人ではあった。

◇ ◇ ◇

事件をめぐる夕刊フジと三浦のかかわりはまだある。人気の記事で「狐狸庵ぐうたら怠談」というのがあった。作家、遠藤周作が美空ひばりに始まり、 右翼の巨頭、赤尾敏、背中に刺青がある女親分、はては東京の乞食と抱腹絶倒の対談を繰り広げるのだが、その中に、三浦和義の良枝夫人があった。連載 8回、さらに離婚・復縁騒ぎを経た1年4ヵ月後2回目の対談も行っている。

遠藤周作に無罪を信じているか、と問われて、
良枝夫人「それはもうまったく信じています。」
遠藤周作「世の中でそれを断言できるのは君だけだものね。彼としては君の確信にすがっていま刑務所で生きているのかもしれない」
という形で終わっている。

=以上「夕刊フジの挑戦」(馬見塚達雄著 阪急コミュニケーションズ発行 2004年)「第13章 狐狸庵先生余話」から=

◇ ◇ ◇

私自身も三浦和義と対峙したことがある。このホームページの「ブン屋のたわ言」の「気になる裁判用語」で書いたことだが、小菅の東京拘置所で原告 と被告として向き合った。

私は小菅の東京拘置所の中に入ったことがある。しかも「被告」として。というと完全に未決囚に思われるが、東京地裁の出張裁判が拘置所内で開か れた時の証人尋問だった。未決囚としてこのとき中にいたのはロス疑惑事件の三浦和義被告(当時)で私はシャバにいた方なのだが、中に入ることと なった。

いきさつを説明すると、彼は拘置所で新聞を克明に読み、マスコミを名誉毀損で次々と訴えていた。正確な数は調べていないが、20や30はあったと 思う。私はこのとき三浦が訴えたスポーツ紙を発行する新聞社の編集責任者として召喚された。三浦「被告」とはいうものの、この場では彼が原告で、被告は新聞社になる。

通常なら裁判は東京地裁で開かれるが、彼が訴えている件数はべらぼうに多い。まともにやっていたのでは小菅の東京拘置所と霞ヶ関の東京地裁の間を日 に何回となく護送車で往復しなければならない。その途中の警備も大変だ。それより裁判官と被告が塀の中に出向いたほうが効率よく裁判を進展させることがで きる、というので東京地裁と東京拘置所が話し合ったのだと思う。こうして私は得がたい体験をすることになった。

ホリエモンはじめ今も経済事犯や汚職事件で逮捕された社長や政治家がカメラのフラッシュを浴びながら出入りする時に写るあの門から某月某日入るこ ととなった。ちなみにあそこは正門ではなく面会門と呼ばれる。取材だとクルマは中に入れないが正式の召喚状があるから乗ったまま入った。もっとも 守衛のところで下車してあとは歩きだった。すこし右にまわった3階の講堂のようなところに案内された。

「コの字」に並べられた長机と椅子が臨時法廷ということで判事がすでに座っていた。原告と被告(私)が対峙するのかと思ったら、一人ずつ呼ばれて聞 かれる。その間片方はエレベーターホールの狭い踊り場で待っている。臨時だからピンポン台が積み上げられているようなところで、椅子もない。相手が 呼ばれている間は埃にまみれたピンポン台を拭いて待っている。自分が呼ばれると、腰縄つきの相手とここですれ違うことになる。

そううまいものは出ないはずだがめちゃめちゃといってよいほど太っていた。顔などプクプクだった。逮捕時の姿で世間も私もイメージは止まったまま だから大いに驚いたものの、写真撮影は許されていない。2007年住んでいる神奈川で万引き事件を起こして久しぶりにテレビでふっくらした姿を見たが、 このときはムーンフェイスといってよいほどだったが写真もないのではどこにも書くことはできなかった。

多くのメディアともどもわが社も敗訴して100余万円払わされた。新聞記者には守秘義務がありニュースソースを明かすことができないため、どうして も裁判では不利になるのだ。

(追記) 日本の最高裁で無罪を勝ち取り自由の身になった三浦和義だが、2008年2月22日、旅行先のサイパンで妻、一美さん殺害容疑で米司法当局に逮 捕された。27年前の事件でロサンゼルス市警の逮捕状が生きていたという驚きの展開だが、この報道で、当時のマスコミ相手の訴訟は476件、取得し た賠償金は数千万円にのぼることを知った。

◇ ◇ ◇

「ロス疑惑」メモ

長期間にわたり、しかも国内国外とつぎつぎ舞台を変え、この間いろんな事件、話題、それに多くの登場人物や法廷闘争がからむのが「ロス疑惑」事件。 「ロス疑惑」というとき、ロス郊外駐車場での妻、一美さん銃撃殺人事件 をさすが、3つの事件で成り立っている。 

A  ロス郊外の東洋女性(白石千鶴子)全裸死体事件
1979年(昭和54年)5月4日、ロサンゼルス郊外のサンフェルナンドバレーの荒地で、黒いビニールに包まれミイラ化した女性の全裸死体が住民によって 発見された。死因など鑑定不能で「Jane Doe 88」(ロス郡検死局のこの年88番目の女性遺体)として保存された。

1984年(昭和59年)3月29日、遺体は日本から送られた歯型の写真から白石千鶴子と判定された。白石千鶴子は、1977年(昭和52年)秋に夫と別居。翌年 2月三浦の会社「フルハムロード」(雑貨輸入店)の取締役に就任。翌年3月20日に離婚成立直後「北海道へ行く」と言い残して行方不明になっていた。こ のとき34歳。出国カードから3月29日にアメリカに向かい、すぐの5月4日に遺体で発見されたことになる。この期間、三浦は3月27日に出国、ロスに滞在して 4月6日に帰国している。

遺体発見直後、元夫から千鶴子の口座に慰謝料430万円が振り込まれた。三浦は、千鶴子名義のキャッシュカードから5月から6月の間に計42回、 総額426万5000円を引き出していた。このことについて三浦は「彼女に貸してあるカネがあり、アメリカからカードを郵送してきたので、私が引き出して返しても らった」と答えている。

白石千鶴子
白石千鶴子さんの写真を見せながら「この件でも三浦を犯人
として訴追する方針だった」と記者会見するジャクソン捜査官。
三浦自殺から3か月後の2009年1月14日、ロス市警はこの白石千鶴子事件についての捜査結果を発表した。長年事件を担当してきたリック・ジャクソン捜 査官は記者会見で白石さんの遺影を掲出しながら、34歳の白石さんが自然死したとは考えられず、遺体の発見された山林が普段人が入らない場所だった ことなどから殺人事件だったと断定した。その上で「米国では死因が特定されなくても状況証拠によって殺人事件として有罪とすることができる」と 説明した。

さらに犯人について、白石さんの銀行口座から預金426万円のほぼ全額を引き出し、アパートから衣類や化粧品などの私物を持ち出していたことや白石さ んの失跡について「母の看病に行った」「北海道に行った」などの嘘を周囲に話していたことなど8つの状況証拠を挙げ、三浦の単独犯行と判断、検察 当局とともに死刑求刑が可能な第1級殺人と窃盗容疑で訴追する結論に達し、サイパンで執行した逮捕状とは別に逮捕状を請求する方針を固めていた という。ただ本人の自殺で訴追は不可能となり、公式にはロス疑惑をめぐる捜査はすべて終結したと述べた。


 B  一美さん殴打事件(矢沢美智子)
1981年(昭和56年)8月13日、ロス市内のホテル『ザ・ニューオータニホテル・アンド・ザ・ガーデン』に「フルハムロード」社長三浦和義と妻一美が宿 泊していた。三浦はロビーで商談中で、一美は部屋でチャイナドレスの仮縫いをしていた。そこに「東洋系の女」がいきなり入ってきて、一美の後頭部 をハンマーのようなもので殴った。一美は救急車で病院に運ばれ、数針を縫った。

産経紙面
産経新聞のスクープ紙面
3年後の1984年5月16日、『産経新聞』朝刊に「一美さん殺しを頼まれた!」と、一美に対する殴打事件の「東洋系の女」、元ポルノ女優、矢沢美智 子(当時24歳)の告白がスクープ掲載された。
矢沢美智子
矢沢美智子の写真は
ビデオのタイトルに残るのみ
「1500万円の分け前と結婚を条件に三浦に保険金目的の妻殺害を依頼されたが冗談と思い断わった」
「それからしばらくして、三浦にロスへでも行って来い、と言われ、60万円もらってロスへ行った。ロスのホテルの部屋に三浦が現われ、再び殺害を依頼 されて金属の塊を渡された」
「一美さんの部屋に行き、あなたは殺されようとしている、と告げるつもりでいたら、もみあいになり凶器が袋ごと当たった」というもの。このあと矢 沢は警視庁に自首した。

この件について三浦は「ガールフレンドが家内が居るところに押しかけて、もみ合いになった。カッとなったその子が家内を突き飛ばして頭に怪我をさ せた」と単なる痴話喧嘩だったと説明していたが、警視庁は立件に動き、9月11日、この殴打事件で三浦と矢沢を殺人未遂容疑で逮捕した。

東京地裁で三浦と矢沢は分離公判となり、1986年(昭和61年)1月8日、まず矢沢に懲役2年6か月(求刑3年)の実刑判決が出た。7月に刑が確定、服役 した。三浦の方には翌1987年8月7日、懲役6年の判決が出て控訴、最高裁へ上告したが棄却され、宮城刑務所に収監された。未決勾留日数が差し引 かれるため、実際の刑期は約2年2ヶ月で、2001年(平成13年)1月17日、出所。

矢沢美智子のその後については三浦がサイパンで逮捕された直後、夕刊フジが消息を伝えている。

都内で飲食店を経営する女性(64)は三浦容疑者逮捕を聞き、「これでやっと、報われたんじゃないですかね…」と感慨深げに話した。
2人の付き合いが始まったのは約20年前。当時経営していた東京・六本木のジャズバーに、事件後、元女優が客として訪れたのがきっかけだった。 「店に通ううちに色々相談に乗るようになって、事件のことも打ち明けてきました。純粋な子だったから、自首すべきか何回も相談されました」

栃木刑務所に入所中も塀の外から元女優を支え続けた。元女優の郷里は福島県只見町。地元の高校を卒業後、21歳で女優を目指し上京したが、三浦元 社長との出会いで運命が狂った。

刑期を1年余残して1年5ヶ月で仮出所する。「出所後は、旅行代理店の会社員と結婚してスペインに移住しました。でも、うまくいかなくて帰国しました」 。帰国後、知り合いの紹介で六本木でホステスとして働き始めた。その後、売れっ子となり銀座に移籍した。

しばらく疎遠だったが、数年後、小学生の娘を連れて、『子供できました』と嬉しそうに話していたそうだ。しばらく家族ぐるみの付き合いを続けたが、 店の移転もあり、3年ほど前から音信が途絶えているが、2年前まで経営していた都内のクラブを閉じ、今は都心の繁華街で雇われママをしているという。 (夕刊フジ2008/02/28)

C  一美さん銃撃殺人事件
 

銃撃現場
ロス銃撃現場
1981年(昭和56年))11月18日、ロス郊外の駐車場で三浦(当時34歳)と妻、一美(当時28歳)が宣伝用の写真を撮影中、2人の男が、いきなり一美の 頭部を撃ち、次に三浦の左脚を撃ち、1200ドルを奪って逃走した。
三浦は1週間の軽傷だったが、一美は弾丸が前頭葉に達しており、高度障害の「植物人間」になった。

1982年(昭和57年)1月、一美はアメリカ軍の病院飛行機で帰国し、東海大学付属病院に入院したが、意識が回復せずに11月30日死亡。

彼女には3つの保険がかけられていて三浦には総額1億5500万円が支払われた。


(1)第一生命=災害死亡時2倍保障  3000万円(1979年12月/結婚を機に加入)
(2)千代田生命(現・AIGスター生命)=死亡時2倍保障  5000万円
(3)AIU=海外旅行障害保険  7500万円(1981年11月/旅行加入)

疑惑報道
週刊文春の「疑惑の銃弾」連載
1984年(昭和59年)1月26日号から7回にわたり、『週刊文春』が「疑惑の銃弾」と題して、記事を連載。この後、テレビや新聞、雑誌などあらゆるメデ ィアを巻きこんでの報道合戦が激化、いわゆる「ロス疑惑」騒動が起こる。表面化したのは、異例の高額保険金の支払いに迫られた保険会社が怪しんで 文春に通報したと思われるが、この年11月、三浦は文藝春秋に6000万円の民事訴訟(損害賠償請求)と「疑惑の銃弾」執筆者を名誉毀損で刑事訴訟を起こ した。

三浦逮捕
大混乱の中での三浦逮捕劇
1985年(昭和60年)9月11日、ついに警視庁がまず「一美に対する殴打事件」で三浦和義と矢沢美智子を殺人未遂容疑で逮捕。テレビ カメラが多数取り囲むなかスポーツカーの屋根の上に刑事が飛び乗っての派手な逮捕劇で、後日、人権派から見せしめではないかと問題にされた。

1988年(昭和63年)10月20日、捜査陣の間ではいわゆる「本件」と呼ばれる銃撃事件の方で三浦和義と実行犯とされた元駐車場経営者、大久保美邦(よし くに)が殺人容疑で逮捕された。

6年間の長い裁判ののち1994年(平成6年)3月31日、東京地裁は大久保に対しては「実行犯と断定するには証拠不充分」として無罪を、三浦に対しては実 行犯を「氏名不詳」としたまま、無期懲役を言い渡した。

さらに10年の裁判があり、1998年(平成10年)7月1日、東京高裁での控訴審で、大久保には再び無罪判決が出た。三浦に対しては、実行犯が見当たら ず謀議の形跡がほとんど認められないと、逆転無罪を言い渡した。
判決要旨には「殴打事件をめぐる行動などに保険金取得を狙ったとしか思えない加害意思を読み取ることができ、その三ヶ月後に起こった本件との間に は共通性も見え隠れする」と認めつつも物証がほとんどないと述べられていた。検察側は最高裁に上告した。

高裁で審理中の2001年(平成13年)1月17日、三浦は殴打事件の方で服役していた宮城刑務所を出所した。
2003年3月5日に出た銃撃事件の方での最高裁の審判は、ふたたび「被告を犯人と認める合理的な疑いが残る」としつつも二審の無罪判決を支持して上 告棄却だった。これで三浦の無罪が確定した。事件から約21年4か月が経過し、三浦は55歳になっていた。

◇ ◇ ◇

サイドストーリーがいっぱい
「ロス疑惑」の報道と裁判の過程で、スワップパーティーに加わっていたことや、有名人のご落胤説、少年院経験など三浦の特異な経歴があきらかにな っていき、そのたびに裁判とは別途に世間の注目を集めたのもこの事件の特異な点だった。
このうち、三浦の生い立ち、性格に関係あると思われるものをピックアップしてみる。

○放火で少年院に
三浦和義の父は準大手ゼネコンの取締役、母は料亭の娘。幼い時期を北海道で過ごしたのち千葉県市川市で育った。戸籍上は女優、水の江滝子の実兄の子供。 「小学生当時、水の江の家へ遊びに行くと俳優たちから多額のお年玉を貰い、その額は30万〜40万円に達した」という。

神奈川県大和市立渋谷中学校在学中、何回も家出した。教師と喧嘩して窓から飛び出し、そのまま家から数十万円を持ち出して大阪に行ったこともある。 精神病院に入れられたこともあるという。やがて学歴の必要性を感じ、横浜市立戸塚高等学校に進学。

高校3年のとき、朝火事があり、三浦と友人が駆けつけ家人を救出したという美談があった。だが、後に放火したのは三浦自身であることが判 明し、1965年(昭和40年)6月16日逮捕された。調べで東京と横浜で7件、自分の家にも2度放火したことが判明。これにより、三浦は水戸少年刑務所で6年余り過 ごした。

水の江滝子
叔母が水の江
滝子というので・・
水の江滝子は戦前、SKD(松竹歌劇団)で「男装の麗人」の異名をとり「ターキー」と親しまれたスター。戦後もプロデューサーとして石原裕次郎を発掘するなど活躍したが、ロス疑惑で三浦和義の叔母ということでゴシップのタネにされ、そのうち「三浦の実母説」を一部のマスコミに書き立てられ、まもなく芸能界を引退している。名前も本名の「三浦ウメ」から芸名と同じ「水の江滝子」に変えた。半生を書いた「ひまわり婆っちゃま」(1988)=写真右=という著作がある。2009年11月16日老衰のため94歳で死去。

○乱交パーティーに出席
妻、一美さん死亡の後だが、当時はまだ一部のマニアだけの世界とされていたスワップパーティー(乱交パーティー)に出席していたことが発覚した。 『オレンジ・ピープル』(廃刊)というスワッピング雑誌が主催する乱交パーティー出席したときのあられもない姿が週刊誌に掲載された。

余談だが、これを撮影した柳沢功二というカメラマンが8年後凄惨な事件に巻き込まれている。1992年(平成4年)3月5日、千葉県市川市の自宅で柳沢 (当時42歳)、妻の照夜(同36歳)、母親の順子(同83歳)、次女の宇海(同4歳)の一家4人が殺害されているのが見つかった(市川一家4人殺人事件 )。犯人、関光彦(当時19歳)が捕まり、2001年12月3日、最高裁で関光彦の死刑が確定している。

○度重なる万引事件
2003年5月7日夕方、東京都港区赤坂のショッピングモール「ベルビー赤坂」5階にある書店で犬のペット関連月刊誌『わんわん共和国』(880円)と 「ロス疑惑」についての文庫本を万引きしたとして、窃盗の現行犯で赤坂署に逮捕された。

「レジが混雑していたので、並ぶのが面倒だった。(代金は)支払うつもりだった」と供述、財布には20数万円持っていたこと、小額だったこと で東京地検は処分保留のまま釈放、後日、不起訴(起訴猶予)処分となっている。

三浦の万引き
三浦の万引場面がテレビに
流れて名誉毀損で訴えた
2007年(平成19年)3月17日午後4時半ごろ、神奈川県平塚市の自宅近くのコンビニエンスストアで、コラーゲンなど3種類のサプリメント計6点(3632 円相当)を盗んだ。防犯ビデオに三浦が商品を上着の内ポケットに入れる場面が映っていた。

2週間後来店した三浦を店員が問いつめると「うっかりしていた。金は払います。いくら?」と言うので「そういう問題じゃないでしょう」とたしな めたが、本人はそのまま帰ったため店長が110番、4月5日に逮捕された。小田原区検が窃盗罪で起訴、小田原簡裁が罰金30万円の略式命令を出した。 全額納付して釈放されたがのちにこの命令を不服として正式裁判を請求、横浜地裁小田原支部で裁判が始まった。

ところが、裁判中にサイパンで三浦が身柄拘束されたため審理が延期されていた2008年5月19日、代理人を通して万引き現場の映像を不特定多数に見せて肖像権を侵害した などとして、コンビニの防犯カメラの製造会社「ジェイエヌシー」(東京)と、コンビニの経営会社を相手取り、計1650万円の損害賠償を求める訴 訟を東京地裁に起こした。

訴えの内容は「ジェイエヌシーは防犯カメラに映った映像でDVDを作成して自社の宣伝のために営業先に配布するなどしたため不特定多数の人が映像を見ること になり、肖像権を侵害された」というもの。ビデオ映像により犯人との印象を与えたのが名誉棄損、防犯カメラの映像をマスコミに提供したためテレビ で再三放映されたのは肖像権の侵害としている。

《サイパンでの逮捕劇と法廷闘争》

サイパン逮捕
サイパンで突然逮捕された三浦
こうしたサイドストーリーはあったものの、事件そのものについては三浦和義は無罪ということが定着していた2008年(平成20年)2月23日、今度は旅行 先のサイパン島(米国自治領)の空港で突然、米当局に逮捕された。それも”本件”の「一美さん殺人事件」で。そんなことが出来るのか、というの がメディアをはじめとする日本側の驚きだった。

そこで浮かび上がったのがロサンゼルス市警の未解決殺人事件捜査班の存在と、米国では殺人罪に時効がなく、殺人の共謀だけで殺人罪並み量刑に問え る共謀罪という、犯罪者には厳しい奥の手があることだった。

CCHU
CCHUにある「MIURA」関係の捜査資料
未解決殺人事件捜査班は「CCHU」(Cold Case Homicide Unit)と呼ばれ、2001年にロス市警殺人捜査課に設置されたチーム。時効がないから迷宮入 りした未解決事件(コールドケース)約6000件のデータは市警本部ビル5階の503号室にある「CCHU」チームに送られ、ここで管理される。事件の 新証言やDNA鑑定、指紋照合など、その後開発された新しい科学的捜査方法などを駆使して犯人を追い詰める。

事実、顕著な成果を挙げていた。
1972年12月、ロス市郊外のサンペドロにある自室のベッドで、女性(当時43)が強姦、絞殺された事件で3年後にある男を聴取したが、関連を否定され、解 決には至らなかった。しかし新しいDNA鑑定で現場の遺留物と一致、事件から31年がたった03年9月、77歳になっていた男が逮捕された。

一度無罪とされた行為について再び刑事責任を問うことはない「一事不再理」の原則は日本でも米国でも同じだが、カリフォルニア州には日本にない共 謀罪があることが三浦追及の鍵だった。ロサンゼルス市警「CCHU」のリック・ジャクソン刑事は「日本には陪審制度や共謀罪がないことが無罪につな がったと認識している」と述べた。たとえ殺人の物証が少なくても、共謀があったことが立証されさえすれば殺人罪並みに問えるのがアメリカの刑法 で、「立証可能な証拠を持つ、強固な事件と確信している」と断言した。

米国の共謀罪・・・2人以上の間での犯罪実行の合意を処罰する規定。犯罪そのものが実行されなくても、犯罪に至る外的行為が立証されれば有罪と なる。カリフォルニア州刑法では共謀罪は重罪で、殺人の共謀罪が認定されれば、禁固25年以上か、終身刑、死刑が適用される。日本では共同して実 行した犯人を共犯として処罰できるが、犯罪行為の成立が前提となり、共謀そのものを処罰する規定はない。

ジミー佐古田
ジミー・佐古田
こうしたことからロス市警は数年前から三浦の動きをマークしていた。日本語が堪能なジミー佐古田はすでにロス地方検事局を退職していたが、三浦のブ ログを監視しつづけ、2007年三浦がサイパン旅行に触れたブログの内容を電話で伝え、たびたび家族や「フルハムロード」の従業員とサイパンやグアムに旅行しているのでこの機会に逮 捕に踏み切るようロス市警に働きかけていた。

フルハムロード
事件で有名になった「フルハムロード」。
神宮前にあったが自宅のある平塚に引っ越した。
このため、関係当局で逮捕、移送に向けた協議を重ねて、88年5月にロス市警が殺人と共謀の容疑で取得した逮捕状が今なお有効だと判断していた。そう いう中、再び「フルハムロード」の従業員とサイパンを訪れ、帰国しようとしたこの日に逮捕状を執行した。 一方の三浦はアメリカに旅行するのは危険だ と察知していたようで米本土には近寄らなかったが「サイパンがアメリカだとは思わなかった」と逮捕後 語っている。

サイパン留置場
三浦が7ヶ月を過ごした
サイパンの留置場
三浦の法廷闘争がまた開始された。サイパンからロスに身柄移送するだけのことで7か月戦った。
現地サイパンで弁護を担当したブルース・バーライン弁護士はロスへの移送手続き取り消しと即時釈放の申し立てをしたが、北マリアナ上級裁判所は3月 5日申し立てを棄却した。その後も人身保護請求、逮捕状の無効確認を求める訴訟と弁護テクニックを駆使したものの、骨格としていた「一事不再理」の 原則についてはサイパンでは議論しないとされたため、ロスの法廷で争うこととした。


ゲラゴス弁護士
マーク・ゲラゴス弁護士
そこでロスでの弁護人として、米の人気歌手のマイケル・ジャクソンの虐待事件の弁護を担当したことで知られるカリフォルニア州のマーク・ゲラゴス 弁護士を依頼し、そのほか計15人の弁護団が組まれた。

9月23日まず最高裁でロスへの身柄移送をめぐる人身保護請求の上訴審で三浦側の上訴を退け、身柄移送を支持する決定が出た。つづいて9月26日、ロス郡 地裁で逮捕状無効申し立てに対し、殺人容疑の逮捕状は無効、殺人の共謀罪での訴追を有効とする決定が出た。
バンシックレン裁判官は決定理由で、「2005年施行のカリフォルニア州改正刑法を、2003年に日本で無罪が確定した三浦に適用することは米憲法で禁じら れた遡及処罰に当たる」「三浦は日本で犯罪とされていない『殺人の共謀罪』では、有罪にも無罪にもなっていない。日本で審理された共謀共同正犯 と構成要件が異なるので一事不再理の規定に反しない」とした。

検察側は「共謀罪で禁固25年か終身刑を求めるだろう」として、ロスへの移送とロスでの裁判が決定した。こうして現地時間10月10日早朝、三浦が民間 機でサイパンから移送され、ロス国際空港に到着、直ちにロス市警本部に送られた。留置場に入ってまもない10日午後9時45分(日本時間11日午後1時45 分)ごろ、Tシャツで首をつっているのを係官が発見した。その後、病院へ運ばれたが、死亡が確認された。61歳だった。

サイパンからロスまで三浦がかぶっていた帽子(冒頭の写真)に「Peace Pot Microdot」とあることが話題になった。幻覚剤の一種(Peace)、マリワナ(Pot)、合成麻薬LSD(Microdot) を意味するヒッピー用語で、それを並べた「PPMD」は彼らの別れの挨拶だというので、三浦からの「あばよ」という自殺メッセージではないか、というのだがうがちすぎている。偶然だろう。

良枝夫人
ロスに向かうため
自宅を出る良枝夫人
(10月12日)
三浦和義葬儀
三浦和義の葬儀(11月3日)
遺体はロスで荼毘に付され良枝夫人とともに帰国、11月3日午後6時から東京都大田区の平和の森会館で葬儀が営まれ、知人や支援者ら約230人が参列した。式の前に泥酔 した女性が乱入、ビール缶を投げつけ暴言を吐くなどするわけのわからない出来事もあったが、代理人の弘中惇一郎弁護士らが弔辞を読み、思い出などを 振り返った。あいさつした良枝夫人は、死因について「真実を解明してほしい」と訴えたという。


佐々木康子さん
「捜査資料を公開して三浦の犯罪をあきら
かにして」と訴える佐々木康子さん
一方、一美さんの母、佐々木康子さん(75)は10月12日、報道各社にコメントを寄せた。

「元ポルノ女優を使って殺人未遂をおかし、そのわずか3カ月後、また複数の知人に一美殺害を依頼して、三浦は巨額の保険金を詐取しました。

しかし、被害者の人権よりも犯罪者の人権を重んじる日本では、三浦が裁判に勝ち、正義は実現しませんでした。少年時代にあらゆる犯罪をおかし、日 本の警察の優秀であることを肌身で知った三浦は、犯罪場所をロスに移したが、そこには共謀罪という罪があることを見落としていた。墓穴を掘ったので す。死んだことで罪がすべて許されるのなら、この世に倫理道徳はなくなります。

以前、ハンストをしたように、狂言として自殺をはかり、誤って死んでしまったのか、死のうとして死んだのか、それはわからないが、三浦が死んでも、 殺された一美、千鶴子さんの無念は変わることはありません。悲しみ苦しんだ遺族の思いは消えることはありません。三浦が死んで一件落着のような風 潮がもう出はじめています。こんな理不尽なことが許されてよいのでしょうか。

家族からの最後のお願いは、三浦を有罪にする確信の元になった捜査証拠資料を公開して、三浦の犯罪がどのような犯罪であったのか、明らかにしてい ただきたい。そうでないと、一美、千鶴子さんの霊は永久に安らぐことがありません」


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